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−阿弥陀なる世界−


  田辺聖子著「女のおっさん」の中の一節より

  「思いやりや人を喜ばせてやろうという気持ち、それが人間の教養あるしるしではないかと思った。夫は一流の学校を出て、知識人と思われ、いい会社につとめ、とりあえず人に出世したと思われて、人生は成功したようにみえるかもしれないが、かんじんのいちばん身近にいる妻さえ心楽しませることをしないのだ。そんな男がなんのインテリ、なんの教養人であろう。人生でいちばん大切にしなければならない人間に、どう思われているかということさえ分からないとは、何というぼんくらであろう」 という女性のことばが目にとまった。

 次のような男性のことばも載せられている。 「女には被害者意識の強い人が多いが、なぜそうなのかというと、ひとえに物覚えがよすぎるからである。自分が他人を傷つけたことは忘れるくせに、他人に傷つけられたことは忘れない」 家事調停の場でもこれに近い内容をよく聞かされる。

 ところで、10年、15年の結婚生活を経て、ふと自分の人生を振り返る時、男性と女性とでは各々の人生を振り返る視点というか、窓の違いがあるようだ。 「俺の人生にとって、この仕事が本当に自分を自分たらしめるためにふさわしい仕事であったか?」と、男は仕事を通して人生をみつめるものらしい。一方女性は 「私この夫を選んで自分の人生に納得しているのか?」と、夫を通して得られたこと、自分の人生に納得しているのか?」と、夫を通して得られたこと、自分の存在の確かさや喜びを確認しようとする傾向が強い。それが先の女性のことばに象徴的にあらわれているように思う。 男にしろ女にしろ人間は、相手に関わっていくとき、付き合って意味があるか、価値があるかという自己関心と損得勘定を拭い去ることはできない。その判断の中で、選びとり結婚した相手を「こんなはずではなかった」とののしるけれど、選んだ自分がどこに立っていたかを問うことはない。限りなく自己の分別心に執着して争いの溝を深めていく。

 分別心に立って人間を量っていく生活からは、本当の出遇いはおぼつかないし輝きもない。そのことの愚かしさに気付けないのを「無明の闇」というのであろう。

 「阿弥陀」とは「ア(否定の意→無)」「ミタ(量)」つまり分別心でもって善悪を量り、損得を推し量ることを否定することば。「南無阿弥陀仏」との出遇いによって一番のことがらを分別心で量っていた我が身であったと、己れ自身の傲慢さに目覚めサンゲされる。そこに開かれる広く明るい世界にしか人との確かな出会いはない。

                         (2003年9月 住職ゴリラ)

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