死から学ぶ生の真実      高史明

第10章

  いつもの事ながら、これからのお話は、言わば蛇足です。残り時間を埋めたいと思います。

 今日はまず、朋成仏に学ぶことから始めたのですが、その朋成仏の「朋」の字が、いま改めて考えさせられます。私がこの朋の字を見たのは、一人子に亡くなられての後でした。お寺に縁を頂いて初めて気づいたのですが、真宗の方々には、同朋という言葉が飛び交っていた。朋成君の朋は、その同朋から来ているのでありましょうか。

  しかし、一般社会では今日、「どうほう」というとき、この同朋はあまり使いません。あるいは私が一般的ではないのかもれしませんが、私の使う「どうほう」は、まずは「同胞」です。思えば、この同胞は強い血縁を現す言葉なのでした。つまり、「月」に「包む」と書く胞を使う。ところで、この「胞」の字は、お腹の赤ちゃんを包む「えな」を意味する漢字なのでした。だから「どうほう」という言葉を、あの同胞という漢字で表すのは、あの「えな」の字が表わす血縁を同じくしているということでありましょう。人間にとって、それは強い絆を意味します。人間はみんな、母親のお腹の中で育って、生まれて、人間となるわけです。その意味で、同胞は人間の基本的絆を意味します。そしてその絆がまた、民族にもなってゆくわけです。私はこの「同胞」とともに大きくなってきたのでした。

 ところが、今日の朋成仏の「朋」の字は、「貝」が二つ並んでいるイメージからきた漢字なのでした。白い清らかな「貝」の連なりが連想される漢字です。この縁の不思議を私は考えるのです。人間とは、この大切な縁を闇にしてしまう存在なのでした。人間のこの血縁のつながりには闇が潜んでいるのです。現代世界の殺し合いは、だいたいこの民族間の対立にあると言えましょう。同胞とは、強い絆であると同時に、人間同士の対立の根っこでもあったのでした。

 お釈迦さまが、親殺しの子をもった韋提希夫人に本当の道を説こうとして、説かれたのが『観無量寿経』でした。その深いお心は、血のつながりだけでは人間は本当の幸せを得ることできないということではないでしょうか。血のつながりを本当に大事にしようと思ったら、血の匂いにまみれた人間の知恵は、一度、仏さまの智慧によってきれいに洗われなければならない。これがお釈迦さまの教えなのだと私は思います。その教えに照らされてある人のつながりを表わしているのが「朋」の字です。

 親鸞聖人の教えを日本中に広められた蓮如上人が、『お文』の第一帖で大事にされたものも、同じ「朋」の字でした。親鸞聖人のお言葉を掲げて、蓮如上人はこう言われていることでした。

  「聖人は御同朋・御同行とこそかしずきておおせられたりけり」

  「かしずきて」とは、大事に大事に育てるという意味をもっております。

 人間とは御同朋、御同行というつながりの中で、はじめて真実の生命の世界に導かれる。それが地縁・血縁を本当の意味で大事にすることになるということなのでしょう。  生命を私物化している人間は、地縁・血縁だけだったら、違う地縁・血縁のものと対立すると殺し合いを必ずしてしまう。その根っこが親殺しであり、子殺しでしょう。  お釈迦さまの教えは実に深いと思います。そして、それを親鸞聖人は日本で深められた。それにしたがって、蓮如上人もまた親鸞聖人の教えの中から、御同朋、御同行という、この一番大事なつながりを明らかにされているのでした。

 私はいま、朋成仏の十三回忌のご法要において、この「朋」の教えに至り得た不思議を思います。今日のご縁をつくづくとありがたいと思わざるをえません。

 思えば、今日のご法要は、なかなかその教えがまっとうにいただけない私のためにあったようにも思えます。五濁悪世と言われますが、時代は、どんどんと濁りを深めています。それと歩調を合わせて、私自身の濁りも深まっています。しかし、私はお念仏をいただいてはじめて、濁りにそまっている自分を教えられているのでした。もし、お念仏に照らされることがなかったら、私はおそらく、濁りの中にありながら、それを意識することすらなかったと思います。

 駄目で助からんこの私の中に、ときどき「ごめんね、ありがとう」という言葉が起きるのです。その光のような言葉が、だらだらと流れている時間を断ち切って立ち現れてくださるのです。その時、この汚れている私自身が、「ごめんね、ありがとう」と思わしめられてくる。それと意識せずして、お念仏を称えせしめられるのです。助からん私が、ここに道があると、そのように教えられるのです。

 世の中には濁りと落とし穴がいっぱいです。自分自身がその落とし穴であり、涙です。私の全身は極重悪人の濁りに満ちています。だからいま、朋成君から叱られているような気がいたしますけれども、お念仏とともに大きく包まれているような気もいたします。

 人間の「時間」は濁っています。真実ではない。仮のものです。その濁っている時間の中を生きる私にも、「南無阿弥陀仏」と、いのちを吹き込んでくださる光がある。その機会を今日もまた与えられました。これもまた、みなさんと朋成君のご法要のご縁によるものでしょう。遥かな彼方よりくる光が、確かにあるのです。南無阿弥陀仏と輝いているのです。その光をお恵みくださいましたことに心より感謝します。

(『死から学ぶ死の真実』 第10章)