死から学ぶ生の真実      高史明

第1章

 死とは何か、生とは何か。私たちは、死のないのが生だと思っていますが、果してそれは生でしょうか。今日は、死に学んで生の真実を考えて見ようと思います。

 まずは朋成仏に学んで見たい。西藤朋成君が突然に亡くなったのは、一九八二年一月のことでした。それから十三年が経ちますが、亡くなった朋成君は、いまなお生の根本を教えつづけているのではないか。それとも仏さまに教えられるという考え方は、変な考え方でありましょうか。生者中心の今日は、物言わぬ身となった仏から学ぶなんて、おかしいと思われる向きがあるかも知れません。 しかし、死者から学ぶことはないか。

 皆さんは、仏さまに死とは何か、と尋ねられたら、何と答えられますか。生者の目からの死は、さまざまです。病死、事故死、自然死、自殺、他殺、等々です。しかし、それは果して、死の根っこを射抜いている答えでありましょうか。 そうです、死とは、大昔から、分かっているようでありながら、人間にとって根本課題なのでした。

 例えば、『ソクラテスの弁明』を思い出して見ましょう。ソクラテスは、古代ギリシャの人です。彼は人間の知を「無知の知」としたことから、告発され、ついに死刑になるのですが、彼の弁明こそは、まさに今日に通じる根本問題です。彼は一人の政治家との対話を例にとって、裁きの場で言ったのでした。

  「―とにかく俺の方があの男よりは賢明である。なぜといえば、私達は二人とも、善についても美についても何も知っていまいと思われるが、しかし、かれは何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りもしないが、知っているとも思っていないからである。―」と。

 そして、その知ると知らないということの究極を、死に照らして考えるわけです。

  「―愛智者として生き自己ならびに他人を吟味することを、死もしくはその他の危険の恐怖のために放棄したとすれば、私の行動は奇怪しごくというべきであろう。―なぜならば死を恐れるのは、自ら賢ならず賢人を気取ることに外ならないからである。しかもそれは、自ら知らざることを知れりと信ずることである。思うに、死とは人間にとって福の最上なるものではないかどうか、何人も知っているものはない、しかるに人はそれが、悪の最大なるものであることを確知しているかのようにこれを恐れるのである。しかもこれこそまことにかの悪評高き無知、すなわち自ら知らざることを知れりと信ずることではないのか。―」と。

  死とは、よく考えてみると、分っているかのようでありながら、分る知恵とは基本的に矛盾しているのでした。私たちにとって、切実で根本の問題でありながら、実は容易に分かったと言えないことだつたのです。生きている者は、死んでいないのだから、死が分かったとは言えません。反対に死んだ者は、生き返って報告できませんので、やはり生者には死が分かったとは言えないわけです。にもかかわらず、私たちは、死を分かっているかのように振舞っているのです。 だからこそ、死者に学ぶものは何もないと考える人もいる。あるいは、死に学ぶというと、どうしたら死なないようにするか、それが死に学ぶことだ思うのでありましょう。しかも、死とは生者にとって、根本的に恐ろしいことなのでした。私たちは、まず死を受け入れることはできません。それゆえ生者は、どうしたら死に遭遇しないですむかと考え、それが死者に学ぶことだと思い込むわけです。しかし、死なないが、そのまま生ではない。死が分からないときには、生もまた、根本的には、不透明なままなのです。むしろ、死に学ばないときには、生もまた生になり得ないと言っていい。死のない生はなく、また生のない死はないのです。そうであれば、死の縁を賜ることがあるなら、その縁を深く頂戴していいのです。そのとき、日頃は気づかずに済ませてきた真の生が、本当の意味で明らかになってくるに違いないのです。

(『死から学ぶ死の真実』第1章)