死から学ぶ生の真実      高史明

第4章

 ところで、朋成仏の願いは、お母さまのお声にも甦っていました。朋成君が亡くなってからは、泣いてばかりだったお母さん。そのお母さんが、その涙を通して何を頂くことになっているか。今度は、そのお母さんと、朋成仏の残された兄弟たちの言葉を学んで見たいと思います。泣いてばかりいたお母さんが書いていました。仏さまが、私たち生者を見つめて下さる眼差しは、どのようなものであるかということです。

  「――またある日、お母さんは仏前で涙していて、『お母さん、朋ちゃんのことばかり考えているんでしょう』」と子どもたちに聞かれたと言います。そこで(僕たちのことも考えてと言うのだろう、ごめんね、と)胸を痛めていると、その子が言うのでした。『だから悲しいんだよ。み仏様といっしょに考えなさい』と」 

 お母さんは、その言葉を聞いて、思わず子供を拝みましたと言います。そして、書いていました。

 「子供が仏様にみえました。子供たちにも悲しみによりそう心が育っていっているのではないかと思います。私も亡き子の命にあたいする生き方を問いつづけてまいりたいと思います。悲しみはますます深まってきますが、その中で何かしみじみしたありがたいものを感じます。いのちの不思議さ、深さありがたさを思います。」と。

 小学校へ入ったばかりの子どもたちが、お母さんと悲しみを共有して「だから悲しいんだよ。み仏様といっしょに考えなさい」と言う。その声はこそは、まさに仏さまの声です。お母さんは、その声を聞いて、残された弟妹たちもまた、亡き朋成仏に真実を教えられ、育てられていることを知ってゆくのです。その仏の働きは、その後の歳月において、何を育ててゆくことになるか。朋成君が亡くなったとき、まだ保育園児であった子が、小学校の五年生になったとき、次の思いを言葉にしていました。

  「お父さんとお母さんの気持ち
  私は朋兄ちゃんがなくなってとってもさびしい。
 けど、お父さんとお母さんはもっともっと数倍もさびしい。
 私には考えきれないほどさびしい。
 お父さん、お母さんは元気な顔をしているけれど、
 心の中は、私に考えきれないほどさびしい」

 朋成仏は、姿なき身となりながら、いや、仏となったからこそ、西藤さんの皆さんと日々をともに生きていると言えます。思えば、親鸞には往く人は、また還る人であるという眼差しがあったのでした。「往相即還相」と言います。仏となることは、ただあの世に往って、自分だけの幸せに自足することではない。還ってきて、人々とともに真実のいのちを生きてくれるというわけです。往く人は、還る人となって、縁ある人々に真実の幸せを開くのです。親鸞はその真実のいのち働きこそが、阿弥陀仏の根本的な慈悲にほかならないことを明示しているのでした。深い悲しみとともに始った西藤さんの一家の歩みを見ますと、まさにその教えの真実を見る思いが致します。仏さまの智慧こそが、真実です。朋成仏は、その智慧とともにあって、私たちを今日のご縁にお招きくださっているのであります。

(『死から学ぶ死の真実』 第4章)