死から学ぶ生の真実      高史明

7章

 さて、そろそろ締めくくりに入るときが来ているようです。繰り返しですが、生者が生者中心に死者を見るだけが、世界ではなかったのでした。死者が生者の目を、深い悲しみの涙によって洗われてゆく世界があったのです。しかも、それこそが真にいのちの大地に通じる道だったのです。

 締めくくりに、今度は同じテーマを、反対の方から見つめたいと思います。いままでは、子に死なれ、親に死なれた側から、死に学んできたのでした。しかし、人間世界にはその反対の悲しみがあります。残される側の悲しみだけでなく、先立つ者の辛さ、悲しさがある。最後に自分が先に死んでいかなければならない辛さ、悲しさにおいて、仏の涙を頂いて見ることにします。 

 飛騨の高山に平野恵子さんという方がおられました。浄土真宗のお寺の坊守さまです。平野さんは四十一歳の時に亡くなられたのでした。三十九歳の時に癌であると気づかれ、闘病生活を送っていましたが、その甲斐なかったわけです。ところで、平野さんは、その病苦の極限において子どもたちに、大切な言葉を書き遺されたのでした。

 西藤さんの寺の方々は、お子が亡くなられた後、残された者の思いをいろいろと私どもに語り聞かせて下さっているわけですが、往く者と残された者、この二人のお言葉が涙に洗われて光るとき、不思議と同じことを教えてくれることがあるのです。

 若い母親が、自分が癌であると気づいて、どういう言葉を遺していくのか。『子どもたちよ、ありがとう』(法藏館)という題名の本があります。その本を手がかりに平野恵子さんが、子どもたちに残そうとしたいのちの声を聞いて見ることに致します。

  「『お母さんの病気』

 お母さんが、自分の身体の変調に気付いたのは、昭和六十二年十二月、ちょうど三十九歳の冬のことでした。(中略)その日は、お正月を三日後に控えて、新しい年を迎えるお荘厳(本堂の飾りつけ)の準備に大忙しの中で、夜はお鏡切りでした。四十個以上の鏡餅を、決められた数に切り分け、それをもう一度縛り直して仏前にお供えするのです。―」

  平野さんが、自分の病に気づいたのは、その重い仕事が終わった直後でした。

 「―家族そろってのお鏡切りを終えて、トイレに入ったお母さんは、しゃがんだまま立ち上がることができませんでした。突然、下腹部を襲った激痛のためばかりではありません。それよりも、便器を染めた真赤な血の海を眺めながら、身体中の力が抜けてゆくのを感じていたからです。―」

  平野さんは、以前から身体の調子が悪かったのでした。その変調がその日、突然真赤な血の海となって目の前に出現したのです。自分の病気が生易しいものではないと気づかれた平野さんは、そのときトイレの中で泣き崩れたと言います。それが最初の涙でした。そして彼女は、そのあふれる涙とともにほとんど無意識に思ったと言います。

  「素耀さん、ごめんね。素行ちゃん、ごめんね。由紀ちゃん、ごめんね。素浄ちゃん、ごめんね……」と。 その思いが、胸底で何十回となく繰り返されたと言います。「何の意識もないままに、泣き続けるお母さんでした」と書いていました。

 何と言う「ごめんね」でありましょう。これこそ生のどん底に溢れる悲しみの知恵ではないでしょうか。死ぬに違いないと思いが、ご主人の素耀さんに対しては、これで妻の仕事ができなくなるかも知れないという思いになったのでありましょう。また三人の子どもたちに対しても、母親としての勤めがこれで終わりになるかも知れない、という思いなったと考えられます。そして、深い涙の「ごめんね」の思いになった。この「ごめんね」には、人間の情愛が溢れかえっています。  いや、この「ごめんね」には、母親としての、また妻としての「ごめんね」をも包みむ深い純粋ないのちの悲しみがこもっていると言っていい。この「ごめんね」は、平野恵子さんの生の極限に吹き上がった「ごめんね」なのでした。死ぬかもしれないという瀬戸際に吹き上がった「ごめんね」。それこそいのちの声なのだと言えましよう。

 人間は日頃、生命を自分のものだと思っているのでした。私物化している。「死」とは、この私物化の闇が破れる時です。人間はその刹那において、はじめて生命は自分の自由になるものではなかったと気づかされるわけです。平野さんの「ごめんね」は、まさにいのちへの「ごめんね」です。いま一歩踏み込んで言うなら、仏さまに対する「ごめんね」です。自分のものではない生命を、長いこと私物化していた私をお許し下さいということです。

 思えば、仏教に「慙愧」という言葉があったのでした。親鸞の『教行信証』の「信巻」に、その「慙愧」についての深い解釈が紹介されています。その昔、阿闍世王は、父親を殺して王位についたのでした。しかし、悔恨に責められて地獄の苦しみを生きることになります。いろいろな学者や大臣が、その王にさまざまの進言をしました。例えば、気に病めば病むほど、地獄の苦しみは深くなるのですから、気にすることはないという人もいるという具合です。だが、王の地獄は深くなる一方でした。まことに罪の意識とは、それから逃れようとすればするほど、深くなるわけです。すると、そこに耆婆という人物が現れたのでした。

  「―善かな、善かな、王、罪を作すといえども、心に重悔を生じて慙愧を懐けり。大王、諸仏世尊常にこの言を説きたまわく、『二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慙、二つには愧なり。『慙』は自ら罪を作らず、『愧』は他を教えて作さしめず。『慙』は内に自ら羞恥す、『愧』は発露して人に向う。『慙』は人に羞ず、『愧』は天に羞ず。これを『慙愧』と名づく。『無慙愧』は名づけて『人』とせず、名づけて『畜生』とす。』」と耆婆は言うのです。

 この耆婆は、人間の悔恨について、大臣たちと根本的に違う立場に立っているわけです。彼は大臣たちとは反対に、悔恨こそが、ほんとうに人間の助かる道だと思っているのです。そうです、人間が本当の人間となり、根本的に助かる道への転換点は、この慚愧にあると言えます。阿闍世は、この耆婆に励まされて、慙愧の道に進みでることになります。そして、やがては真に助かってゆくことになる。しかも、その助かる道は、決して彼一人だけのものではなかったのでした。彼に縁のあった者が、すべて真実のいのちに目覚めてゆくことになるのです。

  平野さんの「ごめんね」は、まさにこの阿闍世の慙愧に等しいと言えます。死の間際にきて、いのちを私物化していた自分に気づいたのです。平野さんの「ごめんね」はまさしく根源的な慙愧だと言えます。いのちからの慙愧です。そうであればこの「ごめんね」は、また新しいいのちの再生でもある。そうです、この「ごめyね」から、平野さんのいのちを見る目が根本的に変わって行くのです。 思えば、先にふれている西藤さんたちの朋成仏との出会いにおいても、この「ごめんね」があったのでした。

 例えばお父さんは、その悲しみと怒りのどん底で「汝自当知」を思い出していました。お経の言葉が、自分を写す鏡になっている。これこそ深い慙愧の表われにほかなりません。また、先には触れませんでしたが、その慙愧の涙は母さんにも溢れ返っていたことが、いま改めて思い返されます。朋成仏のお母さんは、文字通りの『ごめんなさい』という表題で書いているのです。ここでそのお母さんの思いにも、目を向けて見たいと思います。まずは子の死が、母親にとっては、どんなに深い悲しみであるかということが教えられます。  「―がんばれ、がんばれ、ということばはつらい。人間、がんばれんときがあるもの。どうやってがんばればいいのか、それさえもわからないもの。―力がなくて、死ぬことも、生きることもできない時、仏様にあえるような気がする」と西藤さんは言います。

  そうです、亡くなった子は、親がどんなに頑張っても生き返らないのでした。頑張って、そして死んだ子が生き返るのであれば、母親はどんな苦しくとも頑張るのでありましょう。しかし、亡き子は、母親がどんなに悲しみ、頑張っても決して生き返らないのです。仏縁とは、まことに厳しいというほかありません。いのちは人間の私物化を許さないのです。十三年前、大事なお子に亡くなられて、お母さんはまさにこの一大事に気づかされたのでした。丁度、平野さんがご自分の死を前にして知るほかなかったいのちの真実を、西藤さんは子の死によって教えられていると言えます。そして、西藤さんは何を思うか。平野さんと同じです。西藤さんも、平野さんと同じように「ごめんね」を、心底深くに抱くことになったと言います。

   『ごめんなさい』
 ごめんなさい
 ごめんなさい
 ごめんなさい     
 それがすなおにいえない私です     
 一生涯かかります、ごめんなさい    

 ―― 西藤さんもまた、愛する子の死を通して、いのちを私物化していた自分を、逆に教えられています。しかも、この「ごめんね」とは、新しいいのちの誕生の第一歩なのでした。人間が本当に助かってゆく道がひらけるのです。いま少し西藤由紀子さんの言葉を考えて見ます。

 『涙は母さんの力です  西藤由紀子』という文章があります。

  「あなたが亡くなってずっと、朋がかわいそう、朋が悲しんでいる、そのこと一点で仏前で、写真の前でうつ伏して号泣していた。しかしいつの間にか……じっと朋からみられている私を感じはじめていた。そして泣いている私を退一歩してみつめることができるようになった。私自身の執着が私を悲しんでいる、そして自分が悲しい、私自身の悲しさにかわってきた。こんな生き方しかできない私を悲しい。慚愧の思いが、南無阿弥陀仏とお念仏させて下さいます。――」

  そして、西藤さんは言います。

  「―あなたはいつも母さんをじっと見つめているのね。母さんの心が救われた時、聞法している時、そして精一杯がんばった時、にっこりほほえんで―。母さんがぐちをこぼしたり、あなたのかわいい弟妹をおこったりした時、私を失っておし流されようとする時、悲しそうな目でみているのね。いつも朋に憶念されているのに、すわりこんでしまう母さん。そんな日はとても悲しくて、悲しくて、南無阿弥陀仏、ごめんなさい。  ―あんなに毎日、体がちぎれるほど泣いたのに、今の母さん、笑えるし、元気がでてきたの。薄情な母さんですね、母さんを許して下さい。でも、そういう母さんが、とても悲しくなる日があります。そんな日は、なぜか母さんはとてもやさしい心になれます」と。

  なんと辛い悲しい日々でありましょう。しかし、この仏とともにゆく日々、慙愧とともにある日々から、真実の力が湧いてくるのです。西藤さんはまた、こうも書いていました。  

 「―今でも突然ポロッと涙。人は私のことを思って話をそらせようとします。涙は涙でも涙がかわったような気がします。悔みの涙ではありません。あったかいすがすがしい涙です。涙があふれると心にいっぱい力がわいてきて、自然と力がわきます。涙は母さんの力です。朋が涙の中にいてくれるのね。ありがとう、朋!」

  「ごめんね」とは「ありがとう」に通じる 真実の「こころ」だったのでした。「慚愧」は「歓喜」に通じる。そうです、平野さんも「ごめんね」から、やがては喜びの世界に進みでています。いのちを私物化している人間は、「ごめんね」を転換点とするとき、真実のいのちを生きるようになるのだと言えます。ここで今一度、死の瀬戸際で「ごめんね」という声を、本能的抱いた平野さんは、そこから何処に導かれてゆくことになっているか。

(『死から学ぶ死の真実』 第7章)