深く真実のいのちを見つめる  高史明

 人類は何処に向かうのであろう。二〇〇一年の九月十一日、世界の超大国アメリカを空から、同時多発テロの火玉が襲い掛かった。ムスリムと思われる青年たちが旅客機をハイジャックして、国防省と世界貿易センタービルに突っ込んだのである。旅客機の乗客が 道連れにされた。国防省でも何百人という職員が犠牲になった。とりわけ、貿易センタービルの惨事は、無惨だった。三千数百人にのぼる人々が、崩壊してゆくビルとともに奈落へと飲み込まれたのである。

 この未曾有の凶行に心身を投げ込んだ青年たちが、その胸中に抱いていたのは何であったのか。思えば、第二次世界大戦の末期、日本でも多くの若者が特攻隊員となって火炎の中に生身を投じている。その青年たちの懐疑と苦悩、不安と絶望はいまもって平静な気持ちでは読むことが出来ない。だが、その一方で

  「大東亜戦争の必勝を信じ、
 君たちの多幸を祈り
 今までの不幸を御詫びし、
 さて俺はニッコリ笑って出撃する。―」

と書いた若者もいた。

 ムスリムの若者もまた、「ニッコリ笑って」自爆したのであろうか。いや、たとえその顔に微笑みがあったとしても、その裏側に張り付いていたのは、いかにも苦しげな無明の闇ではなかったか。何故、彼らは自爆テロに走ったのであろう。彼らが信じるイスラム教は、ユダヤ教・キリスト教に続く一神教として、七世紀のアラビア半島に誕生した世界宗教であった。その宗教的姿勢は、極めて厳しいと言われている。生きるに厳しい砂漠の民の生の伝統が、そこに反映していたに違いないのだ。彼等は歴史的に形成された強い地縁・血縁の絆に生き、その上さらに深い精神的絆の花をも開花させているのである。

  例えば、彼等は苦しみの「われ」から出発して、感性の欲望を超え、理性の世界を超え、さらには寂滅の世界をも超えて、黎明の世界を目指すのだと言う。その黎明の世界では、人間がほとんど神に近い存在となると信じられているのである。「汝のわれか、われのわれかと戸惑うばかり」(『超越のことば』=井筒俊彦)の世界が出現すると言うのだ。その光の中で、彼らは絶対神と同じ地平に立って対話するのである。驚くべき精神世界である。

 とはいえ、そのイスラムもまた、世界化の過程では、争闘の歴史を繰り返していた。その逆にまた、彼の地には「十字軍」という血まみれの言葉も刻みつけられている。人間の明暗の輻は、無慈悲に回転するのである。いま多くのムスリムの心底には、深い怨念が染み付いていると見ていい。とりわけ、十七世紀から以降、彼らはただ制圧され続けたのであった。「聖戦」と云う言葉が登場してきたのも、この時からである。現代のパレスチナは、彼の地の苦悩と怨みを象徴をしていると言えよう。自爆テロに走った若者の心底には、この歴史的な対峙からくる絶望と怨念が渦巻いていなかったか。彼らは真っ黒い絶望を、爆発する光の玉に転化したのである。

  だが、怒りや怨みは相手を打ち倒せても、怒りと怨みそのものに打ち勝つことはできない。恐ろしいテロが私たちに突きつけているのは、まさにこの人間存在の根っこの闇ではないのか。現代人は、この危機の深いいまこそ、人間中心の五百年を根こそぎに見つめ直していいのである。人間中心の理性は善と悪を見極めることが出来でも、自らの顔を見ることはできないのだ。

  例えば、ブッシュ大統領がテロの直後に述べた言葉が思い返される。大統領はその声明でこのテロを戦争行為であると規定し、善と悪との歴史的闘争を開始すると告げていた。そしていま、アフガンへの報復の大爆撃が始っている。この冬アフガンでは、新たに九十万人の餓死者が出ると警告されていた。善と悪を見極めるだけでは、戦争の時代の二十世紀を見据えて、二十一世紀を真にリードしてゆくことは出来ないのである。

  改めていま、真宗の大地が思い返される。「正道の大慈悲は出世の善根より生ず」と教えられていた。(『教行信証』聖典314頁)この正道こそは真の平和の大地である。仏さまに合掌すること、その真実に深く見つめられてこそ、善悪と個に囚われる人間は、己の理性を真に生かすことができるのである。思えば、真宗大谷派は、早くから仏のいのちを生きる念仏の同朋会運動を展開していたのであった。その運動の四十周年がくると聞いた。今こそ、こころから念仏して真実に立つときである。

  「―すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてならぬ」と言うお釈迦さまの教えを真に生きるときである。

(『深く真実のいのちを見つめる』 )