『今深く真実のいのちをみつめる』  高 史明

第1章

  皆さん、東京に「親鸞仏教センター」が開設されることになりました。私はこの大切な場にご縁を賜ることになりました高史明でございます。ここに立ちまして、このセンターにかける皆さんの願い、期待、あるいは不安までが、改めて深く感じられることであります。

  近代文明の二十世紀は、人間の栄光と暗黒が交差するまことに深い激動の百年でした。その百年を踏まえていま、いま新しく当「センター」が開設されることになったわけであります。新千年紀の初頭にあたって、ここ東京に開設された当「センター」は、親鸞の名をもって私たちに何を告げ、語りかけて下さるのでありましょう。

 いま私は、この私がここに賜っている縁について、深く思いを巡らさずにはおれません。私は在日の朝鮮人であります。しかも、正規には、ほとんど学校に通った事のない人間であります。当然、親鸞聖人の教えについても、きちんと学ぶことはありませんでした。そのような人間がいま、このご縁を頂いている。この縁は何でありましょう。思えば、いまから四半世紀前の私は、およそ親鸞聖人の教えとは無縁な人間だったのでした。感無量です。まずはその仏縁の始まりから、今日のお話することをお許しください。

  先ほど親鸞仏教センターの開所式が、センターの会場であったのでした。お勤めがあり、その締めくくりに恩徳讃がうたわれました。お寺の法座では、いつもうたわれている恩徳讃。その親鸞聖人のご和讃がうたわれていたとき、突然のように私は浄土真宗の方々に、初めてお会いしたときのことを思ったものでした。さまざまなことが思い出されました。

 正直に申しまして、私はその最初のとき「恩徳讃」の言葉に非常な違和感を覚えたものです。不謹慎な言い方ですが、異様な感じを持ったと言ってもいい。『正像末和讃』のお言葉は、皆さんのよくご承知のように次の通りであります。

  如来大悲の恩徳は
  身を粉にしても報ずべし
  師主知識の恩徳も
  ほねをくだきても謝すべし

 この『恩徳讃』が、最初の縁のとき、私には身体的に受け入れられなかったわけです。むしろ、拒否感を覚えるばかりだった。私は朝鮮人でありますが、日本で生まれ、あの第二次世界大戦のとき日本の小学校に通ったのでした。その時代のことです。私たちは、言わば「身を粉にして」という思想で育てられたわけです。『教育勅語』を解説した井上哲次郎の言葉で言えば、

 「蓋シ犬猿ノ如キ獣類スラ、猶ホ且ツ恩義ヲ知ルコトアリ。然ルニ若シ人ニシテ恩義ヲ忘ルルアラバ、実ニ禽獣ニモ及バザルモノニテ最モ卑ムベク最モ忌ムベキ腐肉廃骨ニ過ギズ。」

という思想によって育てられてきたわけです。それ故でありましょう、「身を粉にして−」という言葉を聞いたとき、私の全身にはは強い拒否感が走ったわけです。戦中の記憶が棘となって甦ったと言えましょう。

  しかし、いまに思えば、そのとき私は改めて亡き子に手を取られることになったのでした。私たちの愛する一人子は、中学生になったばかりのとき、あろうことか自らいのちを絶って世を去ったのでした。その亡き子が、私の全身を捉えて離さなかったのです。そして、先ほどの開所式では、かつてこの身に沁みることのなかった『恩徳讃』が、静かな喜びとなったのでした。この四半世紀の時の流れが、しみじみと思い返されました。

 仏縁とは、この四半世紀の間、片時も私を見捨てることがなかったわけです。何もかも失い、世界のどん底に墜落していた私の側には、如来があったのでした。その大悲が、ここにミ身に沁みて感じられたわけです。 思えば、国家のための「粉骨砕身」を説く思想は、「如来大悲」を踏みにじっていたのでした。それがいかに深くいのちを見失うことになったかが、いま改めて思い返されます。また、子に自死されることになったときの私にも、「如来大悲」と示されているいのちの真実への合掌はなかったと思うほかありません。如来はその私を見捨てていなかったのです。仏縁とは、まことに不思議です。その仏縁を噛み締めて、いま改めて今日を思うことであります。

 危機の深い現代世界が切に求めているのもまた、実は仏縁を通して明らかにされている如来の真実ではないでしょうか。 見渡せば、私たちの身辺には、果てしない荒野が広がっています。今日の華やかな町々は、実は荒野そのものです。私たちの今日は、鉄道自殺があっても話題にすらならないのであります。昔は、鉄道自殺はめったになかったことでした。それが頻繁に起こっている。この痛ましい出来事は、いわば現代の不幸の象徴なのでありましょう。 いのちが、深く見失われているのであります。しかも、私たちの足元には、不況という名の不気味な奈落が、いよいよそのどす黒い口を大きく広げているのです。私たちはいま、眼前の出来事の一つ一つに正確に対処してゆくだけでは、間に合わないところにいるのではないか。

 人間自らの依って立つ大地そのものが、近代世界の全体がしっかりと見定められていい時なのであります。

  (『今深く真実のいのちをみつめる』)