『今深く真実のいのちをみつめる』  高 史明

第2章

  思えば、昨年の九月十一日、アメリカに同時多発テロが起きました。二十一世紀の初頭に起きたこの悲劇は、まさしく私たちがいま何処にいるかを、剥き出しにして見せる出来事ではなかったでしょうか。この惨事の翌日、ブッシュ大統領が声明を発表しました。そこに如何なる言葉があったか。ブッシュ氏は、現代世界最大の強国アメリカの大統領です。その彼が言ったのでした。「文明対野蛮の戦い」が始ったと。またそこでは「新しい戦争」という言葉も使われていました。そして、その戦いを「善と悪の戦い」と規定して、アメリカは善の側に立って悪をたたきのめす、という意味のことを述べていたわけです。

  ニューヨークの世界貿易センタービルでは、一瞬にして三千人にも上る人々がいのちを奪われたのでした。恐ろしい惨劇です。アメリカ中に報復の大合唱が起きました。しかし、世界の強国アメリカ大統領のブッシュ氏が、その報復合唱の先頭に立っていることをどう考えるべきでありましょう。あの悲劇は、果して文明対野蛮という言葉で括っていいものでありましょうか。アメリカの大統領の声明とともにいま、アフガンへの報復の大爆撃が始っています。あの砂漠の国が、世界最大の国の軍事力によって爆撃されている。 

 アフガンでは、第二次大戦以前からこっち、いわゆる先進国の植民地支配の後遺症が原因となっての内戦がつづいていたのでした。すでに五百万人からの人々が、流出していると言われています。そのもっとも貧しい国に対して、小型の原爆の破壊力にも匹敵する爆弾が投下されることになっている。これが文明国のすることでありましょうか。野蛮と見なされている土地の人々は同じ人間ではないのか。早晩、アメリカによってテロ組織と規定された勢力は、壊滅させられることでありましょう。 しかし、あの悲劇を「文明対野蛮の戦い」という言葉でくくるなら、現代文明は、ついに自らの課題を見失うことになるのではないでしょうか。

 私はここで、一七九五年に明らかにされたカントの『永遠平和のために』を思い起すことであります。彼はヨーロッパに誕生した知識人でありながら、その知識人の良心にかけて言うのであります。

 「―ところで、われわれの大陸の文明化された諸国家、――かれらがほかの土地やほかの民族を訪問する際に(訪問することは、かれらにとって、そこを征服することと同じことを意味するが)示す不正は、恐るべき程度に達している。アメリカ、黒人地方、香料諸島、喜望峰などは、それらが発見されたとき、かれらにとってはだれにも属さない土地であるかのようであったが、それはかれらが住民たちを無に等しいとみなしたからである。」

 ブッシュ大統領は、このカントの指摘をどう見ているのでありましょう。 もちろん、この眼差しは、一哲学者のものです。政治家は、この眼差しを非現実的と一蹴することは簡単です。だが、そのとき世界の平和は、いっそう遠のくのではないでしょうか。事実、それが今日の課題であるわけです。

 現代文明は、確かに人類史上にかつて見ることのできない豊かさを誇ることができます。しかし、その豊かさは、今日、その豊かさを繰り返し絶滅できる破壊力の核兵器体系と、抱き合わせであります。しかも、問題は国際関係に燻る硝煙だけにあるのではありません。地球の温暖化の危機が、かなり以前から大きな問題となっていました。少し露骨な言い方をするなら、あの恐ろしい核兵器体系は、果して野蛮と見なされている土地に生きる人々が作りだしたものでありましょうか。

 また、今日の地球の環境破壊は、自然ともに生き続けている大地の人々の生活が生んだものでしょうか。 すべては、いわゆる文明国に原因があります。その物の考え方と暮らし方が、こんにちの危機的状況の根っこなのです。しかも、文明人たちの暮らし方が、いまのままの形であと五十年も続くと、地球環境に破壊的な現象が起きてくるであろうと予測されていました。当の文明国の知識人たちが、その予測をしているわけです。

 ニユーヨークの痛ましい犠牲者は、いま深い沈黙を守っています。しかし、その仏さまが、深い沈黙をもって見つめているのは、まさに今日の文明のあり様と、この文明の根っこに横たわる人間中心の知恵の闇ではないでしょうか。文明の時代の二十世紀に二度の世界大戦があったのは、何故でありましょう。人間の理性は、決して絶対的な真理ではないはずです。

  (『今深く真実のいのちをみつめる』)