暗闇は真実の光に満ちる −『歎異抄』に学んで−   高 史明

第3章

 私たちはいま、戦争と革命の時代だったと言われている二十世紀の根っこを、深く見つめていいのである。人間と自然、有と無、善と悪の二項対立を絶対化する視点とは、何であったのか。私はデカルトの功績や科学を、単純に否定しようとしているのではない。だが、その功績に深く脱帽するのであれば、その限界もまた、深く見つめられていいのである。

 人間の歴史は、百年の物差しで見直しができる場合いがあり、また千年、二千年の尺度で見直されなくては見えてこないときもあると言えよう。個人の一生でも、一年の物差しで済む場合があれば、残り時間が後一時間というときになって、千年、万年の深さから考えたいときもあるのだ。今日の世界状況は、まさに個人的にもまた、世界的にも千年、万年の深さでもって考えられていいときではないのか。

  思えば、人間の歴史には、自他を対象化し、善悪、生死を見分けて、絶対化してゆく知恵とともに、人間を人間にしている知恵そのものを、根こそぎに見つめてゆく真の知恵の水脈もあったのだった。

 『歎異抄』は、その仏教の水脈が日本で生んで真実の知恵である。例えば、その三章には、有名な次の言葉がある。 

  「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり」

 実際、善と悪を見分け、善を選択する人間の知恵とは、何であるか。表から見ると、それは明である。しかし、人間は自らを光り輝かせる知恵によって、何を作り出していたであろう。いや、人間が作り出しているのは、核爆弾だけではないのだ。

  『歎異抄』に「煩悩具足の凡夫」という言葉があった。いまこの言葉を平易に読み解くなら、身の煩いと心の悩みが、全身に満ち渡っているただ人と言うことになろう。確かに人間は万人が、身の煩いと心の悩みを生きているのであった。では何が、人間の身の煩いと心の悩みの根っこであるのか。

 人間を人間にし、善と悪を見分けさせてゆく知恵が、その根っこなのである。にもかかわらず、人間はこの自らの根っこの闇に囚われるのであった。まさに「煩悩具足の凡夫」たる所以である。 だが、そのとき何が世界に起きてくるか。

 『歎異抄』が、「煩悩具足の凡夫」という言葉につづけていたのは、「火宅無常の世界」という言葉であった。人間は自ら知恵で善悪の二項対立を絶対化しつつ、その世界を常に燃え盛る炎の地獄にしているのである。『歎異抄』に結晶している仏の眼差しが、いまつくづくと思い返される。生死の分裂についても同じことである。では私たちは、人間を人間にしている知恵の闇を、どう超えてゆくことができるのか。それこそ絶対矛盾である。哲学的な概念や核爆弾では、この矛盾を超えることは不可能であるに違いない。

  しかし、『歎異抄』は述べていた。

 「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」

 私たちは、いまこそ如来の知恵に導かれていいのである。ではその如来とは、何処におわすのか。「如来ともうすは、諸仏をもうすなり」と言われていた。無量の仏こそが、真実の知恵なのであった。その声は聞こえない。しかし、こころから合掌する者には、必ず聞こえるのである。

 『歎異抄』は、その声なき真実の声との出会いについて、その冒頭において次のように述べていた。

  「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあすずけしめたまうなり。(以下略)」

      (『暗闇は真実の光に満ちる −『歎異抄』に学んで−』)