『そろそろと思いながら』  高 史明

第1章

 まださめぬ此世の夢を夢に見て
   いやはかななる身のゆくへかな
 沢庵和尚の歌である。その沢庵はまた、「夢」の一字を最期に七十三歳の生涯を終えたと言う。なかなかに羨ましい生涯である。私などには、それこそ夢のまた夢の境地である。何もかもが夢と思われながら、私はなおその夢に執着しているのである。

 とはいえ、天の配剤ということがあった。有り難いことである。七十の峠を越えてから、私のような者にも、ふと死期の気配が感じられることがある。それとともにこれまでの七十年が、より深く感じられてくる気がするから不思議である。例えば、死と生いうことについても、その根っこが見えてくるような気がするのだ。

第2章

 私の生家は、恐ろしいほど貧しかった。両親は、朝鮮から流浪してきた労務者だったのである。私は幼いとき、そのハーモニカ長屋の一室で首を吊ろうとした父親の姿を見た。ある真夜中、父親が首に黒い電気コードを巻きつけていたのである。その光景が、ふと目に意識されたとき、私は瞬時にして本源的恐怖を覚えた。それこそ「死」が直感されたのである。死とは、まさに幼児の心臓をも凍りつかせるほどの苦なのであった。

  だが、その一方で私の脳底には、いまにその死に駆り立てられていったときの記憶もまた刻まれている。私はいわゆる満州事変勃発の直後に生まれたのであった。その戦争は、その後まっすぐ日中戦争となり、第二次世界大戦へと連動した。思えば、この時代の子は、毎日のように戦争教育を叩き込まれていたのであった。つまり、天皇陛下の赤子として、戦場で立派に死ぬこと、その覚悟を養うこと、それが教育のいわば眼目だったのであり、私はなんの意識もなくその教育を受けいれていたのである。しかも、そのとき私は、植民地朝鮮の子だった。その私には、戦場における「死」だけが、許された生の場だったのである。あるいはまた、そこには生と死の境にかかる思春期の夢幻が、霞のように広がっていたのでもあろう。この歪みは何か。死が深刻な苦である一方で、その対極に位置するはずの生もまた、深く歪んでいたのである。

  長い間、私はこの歪みの根っこを考えようとして、考え抜くことができなかった。この歪みに翻弄されつづけたのである。それ故のことであろう。せっかく戦争の死を免れながら、私はその後も、何度か死の淵に立たされた。二十代には二十代の危機があり、三十代にもその危機があった。私が人間のこの生死の根っこを考えるようになったのは、四十代に入ってからである。私たちは一人子に先立たれたのであった。なんという親であったことか。私は一人子の死によって、はじめて人間の根源的闇を考えるようになったのだった。つまり、仏教に導かれたのである。

第3章

  気づいて見れば、仏教は当初から、人間の根源的闇を見つめていたのであった。いや、この闇こそが、仏教誕生の契機だったのではなかろうか。仏陀の出家の動機は、次のように語られていた。「比丘たちよーー愚かな者は、自ら老いる身であり、いまだ老いを免れることを知らないのに、他人の老いたるを見れば、おのれのことは忘れて、厭い嫌う。考えてみると、わたしもまた老いる身である。老いを免れることはできない。それなのに、他人の老いおとろえたさまをみて厭い嫌うというのは、わたしとしてふさわしいことではない。比丘たちよ、そのように考えたとき、わたしの青春の?逸はことごとく断たれてしまった」

 人間とは確かに、他人の老いたるさまを見れば、己のことは忘れて、これを厭い嫌うのである。人間の対象的に働く知恵には、ここに明示されている通りの闇が潜んでいると言っていい。他人が見えているときには、自分が見えないのである。人間はあるがままの自分を知ることはできない。知ろうとする者がまた、知られる自分であれば、あるがままの自分が自分に見えないのは、当然のことだったのであった。にもかかわらず人間は、その知恵で生が捉えられかのように思っているのである。

  仏陀は、太子だったときのある日、城の東西南北の門の傍らに横たわる人間の生・老・病・死の四苦を目にして、この人間の知恵の根源的闇に気づかれたのであった。それが出家の動機なのだと言われている。その眼差しは、まさしく人類永遠の真理であると言えるだろう。人間は人間である限り、万人がこのあるがままが、あるがままに見えない人間に固有の知恵の闇から逃れられないのである。人間の生が、いわゆる四苦となるのは、この知恵の闇に真因があると言っていい。そうであれば、その歴史もまた、深くこの闇に浸透されていると見てよいだろう。人間の歴史は、戦争の歴史であった。末法という言葉があるが、人間とは善を振りかざして殺し合うのである。末法こそはほんとうに恐ろしい。

第4章

 ところで、昨今の世界にはまた、この末法の様相が刻々に深まりつつあるのではなかろうか。二十一世紀の初頭、アメリカを同時多発テロが襲ったのであった。その直後、ブッシュ大統領は、善と悪、文明と野蛮の二項対立の視点に立って、いわゆる「ならず者国家」を指名し、核兵器の使用も含む先制攻撃を宣言した。それ以降、世界はまさに新しい戦争の危機を刻々に深めているのである。北朝鮮とイラクが、アメリカの槍玉に上がっている。世界はこの危機を回避できるであろうか。

  善と悪の二項対立の絶対化によっては、この危機の回避は困難を極めるであろう。人間の知恵とは、決して絶対的な善ではなかったのだった。では人間の闇を見抜いた仏教が、この危機を回避する視座となりうるのであろうか。確かに仏教には、その視座が備わっていると考えられる。だが、仏教の真理にもまた、人間の知恵の闇が絡みついているのであった。

  第二次世界大戦の前夜のことである。哲学者の三木清は、深刻化してゆく日中戦争の現実を見詰めつつ「日本の現実」を書いていた。「日本は世界最大の仏教国であると云われるが、その日本においてすら現在、仏教は知識階級からはもとより大衆からも見はなされつつあるのである。近年わが国において叫ばれた『宗教復興』の如きも、実は、類似宗教の台頭、邪教の発生以外のものではなかった。そして、仏教家は自己の力によってそれらを退治したのでなく、却ってただ官憲の力のみがそれを弾圧し得たのである。―仏教もただ武力と官憲との行く処に従いてゆくのみではないか。ー」と。彼はいわゆる大東亜共栄圏の行く末に日本の滅亡を予感していたのであった。この文章の末尾は、次の言葉である。「世界文化の統一の中においては、日本と支那とがそれぞれの特殊性を発揮するということが、いわゆる東洋の統一よりも大切なことである」

  だが、その時代の人々は、彼の言葉に耳を傾けようとしなかったのではあるまいか。戦争は激化していった。そして、その末期において、彼もまた、戦地に赴く学徒兵に死について問われて、ついに書くのである。「死の問題は伝統の問題であるー日本の兵隊の死生観は靖国にある」と。そのとき彼は、自ら知識人の立場を捨て去って、死地に赴く人々と同じ境地に立とうとしていたのではなかった。その彼が官憲に逮捕されたのは、敗戦の年の六月だった。そして、一人娘を後に残して、戦後の九月に獄死するのである。彼の心中が、ひしと胸底に凍み入ってきてならない。しかも、その三木の絶筆は、『親鸞』だったのである。

  倉田百三の『出家とその弟子』は有名である。しかし、三木清の『親鸞』を知る人が、この国にどれほどいるのであろう。今にして、その絶筆の結び言葉が、深く思い返される。「親鸞においては無常感は罪悪感に変わっている」と彼は言うのだ。思えば、諸法無常の真理は、正法のときの道なのであった。それが哲学的内観へと進み、聖道門へと結実したのである。親鸞は、その聖道を突き破り、末法の時の「罪悪深重・煩悩熾盛」の身を明示したのである。それこそが、日本の真の伝統である。あるがままの生・老・病・死は、決して苦ではない。真実の「自然」である。恐ろしい危機に臨んで、改めてこの末法のときの真実の知恵が思われてならない。