『時代によみがえる歎異抄』  高 史明

歎異抄 第八章

一 念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々

「愛別離苦」と葬送のまこと

 七章では、念仏者の大道が明らかにされていたのでした。阿弥陀の真実は、何ものも妨げることができない真実の智慧の大道だったのです。ではこの八章が、私たちに明示しているのは何でありましょう。

 さきに私は、親鸞の教えを、日本の大地に根付かせた人として、蓮如の名を上げました。蓮如は巨大な真宗教団を作り出したことから、毀誉褒貶さまざまに評価されていますが、彼は末法の室町時代を生き抜き、仏教の真実を通して、その時代の膨大な人々のこころを捉えた人でした。その蓮如の言葉には、深い奥行きがあって、いまなお現代人には咀嚼しきれていない部分が大きいのではないかと思われます。この九章を開くに当たって、私はここにまず、蓮如の『御一代記聞書』の次の言葉を考えて見たいと思います。 「よきことをしたるが、わろきことあり。わろき事をしたるが、よき事あり。よき事をしても、われは法儀に付きてよき事をしたると思い、われ、と云う事あれば、わろきなり」

 いかにも何気ない言葉です。恐らく誰もが、ここに言う、良いことをしたつもりが、悪い結果となってしまったという経験を、一つや二つは持っているのではないでしょうか。とはいえ、この誰もが経験している言葉を通して、蓮如はここで実に大切な問題を提起しているのでした。「よき事をしても、われは法儀に付きてよき事をしたると思い、われ、と云う事あれば、わろきなり」と蓮如は言うのです。蓮如がこの言葉で見つめているのは、でありましょう。

  この蓮如の視点は、今日の私たちの視点と真っ向から対立しています。私たちの今日は、蓮如とは逆なのです。つまり、何事も自分中心です。極めて客観的な科学の世界にあっても、自分中心に客観法則を発見し、それに従うのが、現代人のあり様です。それが今日の常識でありましょう。だが、蓮如がここに指摘する落差こそがまた、現代の問題なのです。いま一歩、この言葉を現代とのかかわりに踏み込んで考えてみたいと思います。

 例えば、ここにこの法を仏法の「法」とし、「儀」をまたその作法の形と見るなら、この法儀は、現代の私たちの社会における葬儀の場において考えることもできます。実際、自分中心の現代の私たちの葬儀の形は、どのようなものでありましょう。現代人は、送別のときもまた自分中心なのです。言うなれば、「われ」を中心によきことしたというのが、そのあり様ではないでしょうか。そこでそのお別れのとき、私たちは何を思いましょう。まずは、長い間、ご苦労様、ご冥福をお祈り致します、と心静かに念じるのでありましょう。それが今日の送別の心得です。あるいは、亡くなられた人が、若い人であれば、そんなに若くして、さぞご無念なことでしょう、どうぞ、成仏して下さい、ご冥福を念じます、と思うわけです。もちろん、無念無想の人もいるでしょうが、これがまずは一般的な形ではないかと思うのです。

 だが、この葬儀の形こそは、まさに自分中心の「われ」に潜む深い闇の現れにほかならないのです。そもそも冥福とは何でありましょう。冥福とは、死後の幸せを意味します。現代人はしかし、死後の世界を信じていなかったのではないでしょうか。にもかかわらず、冥福を祈念するのです。大きな欺瞞です。しかも、さらにその上、念仏を称えることになるなら、このあり様をどう考えればいいのでしょう。欺瞞に欺瞞が重なるのです。これこそ念仏の私物化です。念仏を行者の善、行者の行にしているのです。いのちを自分のものと考えている人間は、念仏をも自分のものにして何も感じないのです。

 八章の冒頭は、まさしくその私たちの迷いを根本から戒めるものと言えましょう。「念仏は行者のために、非行非善なり」と言うのです。私たちが念仏を称えられるのは、すでに仏が声のない真実の念仏を称えておられるからであります。念仏は、何よりもまず仏さまの行なのです。この仏さまの声のないお念仏があって、私たちもまたその仏の声に声を合わせることができるのです。それが合掌です。そのときはきっと、世界の数知れない仏さまの念仏が、私たちにもいっそう深く聞こえてくることになりましょう。

  蓮如の言葉は、まさしくこの人間の自分中心の知恵の闇を覆しているのだと言えます。現代人は、むしろ蓮如の言葉にそって、その葬儀の形を根本から見直していいのです。ここに浄土の教えの真実があります。思えば、親鸞が浄土の高僧の七人の一人に上げていた人に曇鸞大師がいました。その曇鸞に「往還大悲の回向」という言葉があります。浄土に「往く」ということは、すなわち「還る」ということであって、そのすべては阿弥陀さまから、私たちに差し向けられている阿弥陀の深い慈悲であり、智慧であるというのです。いま一歩踏み込んで言うなら、浄土に往くということは、すなわちただちに還って、私たちの無明の知恵を破ることにほかならないというのです。私たちのいのちを私物化している闇が破れるのは、その瞬間なのでありましょう。それはまた、私たちの生の根本が変わることなのでした。それが阿弥陀さまの慈悲ということです。

 にもかかわらず、私たちは、葬儀という大切の場をも、自分中心の迷いの場にしているのでした。念仏をも自分の善、自分の行にしているのです。それこそ生者中心のあり様です。この人間中心の生き方が、現代世界にどんなに深い暗雲を広げることになっているかは、すでにさまざまに述べてきました。

 仏教が真に生き返って欲しいものです。しばしば仏教の低迷が問題にされることになっています。仏教には、もはや現実にかかわってゆく力がないのではないかという声も聞こえます。いまこそ仏教が仏教を生きようとする人たち自身によって、まずなによりも大切な仏のお声をじかに聞く場になることが願われます。仏さまをあの世に送り出す生者中心の形は、よくよく見直されていいのです。「よき事をしても、われは法儀に付きてよき事をしたると思い、われ、と云う事あれば、わろきなり」です。葬儀の場とは、私たちが仏さまの教えを聞く場所なのです。もし、この場所が仏さまをあの世に送り出す生者中心の場から、仏が新しいいのちの働きを起こすときであり、私たちがその真実の声を聞く場とできるなら、その場からして直ちに生者の世界を根こそぎに変えて行こうとする働きが、音もなく広がり出てくることでありましょう。

  「念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という」と言われていました。この真実は、決して過去の教えではなかったのでした。むしろ、今日の私たちを照らしだしている深い真実です。

阿闍世の悟り  

 そろそろこの章にかかわる紙幅も、残りが少なくなりました。この章の締めくくりとして、私はここに人間の知恵の闇を、根こそぎに切り開いている「阿闍世」の闇と転生を考えたいと思います。親鸞はその『教行信証』において、阿闍世を実に大切な巻に据えているのでした。つまり、その「序文」からして、この親殺しの阿闍世が見つめられており、その「信の巻」においては、その転生がいっそう深く見つめ直されているわけです。

  思えば、『教行信証』の「信の巻」は、人間の自分中心の知恵に対して、真実の知恵を開示してゆく根本的な巻でした。そこで阿闍世の転生が、深く見つめ直されているのです。人間の信じるこころの形を、論理の言葉によって精密に見届けた後に、阿弥陀の真実を阿闍世の体温に即して開示しているのだとも言えましょう。それ故でありましょう、現代人もまた、さまざまにこの阿闍世を論じています。阿闍世コンプレックスという言葉すらあるほどです。インドの阿闍世は、まさにギリシャ悲劇のオイディプスとともに、人間の明暗の原型を備えているのだと考えられます。

 それにしても、この阿闍世とオイディプスがともに親殺しであるのは、何を物語るのでありましょう。ここに人間の闇の原型が、現われでているのかも知れません。阿闍世は、親を殺して王位についたのでした。しかし、その後自らの悪業に苦しむことになるわけです。その人知の闇を通して、人間の罪業の深さと超克の道が明らかになってくるのです。

 思えば、オイディプスもそうでした。オイディプスは善人の極地に進み出ようとして、父親を殺し、母親を妻とした自らの罪業の奈落を見ることとなり、苦悶のあまり、自分の手で自分の両目を潰して、荒野へと旅立ってゆく罪人でした。このオイディプスの罪業と苦悶は、人間の見える目の暗黒を象徴していると考えられます。まさしく人間の知恵とは何か、その目が見えるということは何かということです。

 阿闍世の方もまた、親殺しの悲劇を通して、人間の闇と、その超克の道を開示していると言えます。彼は父親を殺害して、王位についてから、古代インドの代表的な思想家の六人から、悪業の苦しみを逃れる道を尋ねようとするのでした。この六人とは、今日の言葉に置き直すと、唯物論や観念論、あるいはマキャベリズムやプラグマチズムの代表者と言っていいかも知れません。もっともその中には、支離滅裂の詭弁をもって、救いの道とする者もいたようです。彼らは、それぞれに持論を展開していました。だが、阿闍世は、どのような教えを聞いても、救われないわけです。それどころか、いよいよ苦しみが増してゆくのです。

 そのとき「耆婆」という名の大医が現れて、告げたのでした。「―善いかな、善いかな、王、罪を作すといえども、心に重悔を生じて慙愧を懐けり。大王、諸仏世尊常にこの言を説きたまわく、『二つの白法あり、よく衆生を救く。一つは慙、二つには愧なり。―』」と。つまり、耆婆は阿闍世に説いたのでした。仏さまは、常に説かれています。人間は、二つの清らかな法によってのみ、助けられてゆくのです。その二つの法とは、慙愧の「慙」と「愧」です。あなたには、いまその慙愧があります。きっと助かるはずです。どうぞお釈迦さまの所にいって、その教えを聞くことです、と。

 そして、阿闍世はその耆婆の勧めの声に重ねて、さらに虚空からの声も聞くことになるのでした。阿闍世よ、おまえは親殺しの大逆罪を犯したのです。その罪の報いを逃れる道はありません。阿闍世よ、すこしでも早く、お釈迦さまの所に行きなさい。お釈迦さまをおいて、おまえを助けることのできる人はいないのです。私はいま、おまえを不憫に思うからこそ、勧めるのです、と。

 阿闍世は、思わず顔を上げました。虚空に姿なくして誰がいるのであろう、と思います。ただ声だけが聞こえてくるー。すると、虚空の声は、さらに続いたのでした。阿闍世よ、わたしは、おまえの父の頻婆沙羅です。いまこそ、おまえは、耆婆の言葉に従いなさい−。瞬間、阿闍世はその場に卒倒してしまいました。すると、悔恨の毒が心身に悪臭を放ちながら広がりました。全身が腐ってゆくのです。阿闍世はどうなるのでありましょう。

 親鸞は『涅槃経』によって、さらにその先を見届けていました。阿闍世はまさに地獄に落ちたのではないでしようか。だが、そのときお釈迦さまが現れて告げられたのでした。「善男子、我が言うところのごとし、阿闍世王の『為』に涅槃に入らず」と。涅槃とは、悟りの世界です。お釈迦さまは、苦悶に突き倒された阿闍世のために、「悟り」の世界にお入りにはならないと宣言されたわけです。釈迦が極悪人の阿闍世のために悟りの世界にはいらない、と宣言なさるとはなんという声でありましょう。まことに深い言葉です。

 これこそが阿弥陀の悟りであり、真実の智慧の開示です.ここに仏教の真実があります。 阿弥陀仏とは、自分中心の知恵に惑い、罪を犯し、苦しんでいる万人の救いを願い、ついに浄土を建立なさったのでした。そして、このいまも、その誓いを実現させつづけているわけです。それこそが真実の智慧であり、いのちです。阿闍世は地獄の底で、この阿弥陀の慈悲に包まれたのでした。この出会いの要に開かれているのは、人間の知恵と仏の智慧、その違いと同一性の展開だとも言えましょう。その二つの「智慧」は、根本的に違いながら、それ故にまた重なっていたのでした。

 また、人間の幻の世界と仏さまの真実の世界との同一性と、本質的な違いがここに開示されているのだとも言えましょう。阿闍世は自らの罪と悲しみと苦しみを通して、それこそ初めて仏道の真実へと歩みよったのでした。 阿闍世はやがて、「阿闍世のために涅槃には入らない」という釈迦の言葉の真意を悟りました。仏教が彼の罪業と汚辱の心身を清めたのだとも言えましょう。そして彼は、ついに釈迦に自分の心身のすべてを任せて告白する日を迎えるのです。彼は表白します。

 「お釈迦さま、世間では伊蘭樹の種から、悪臭を放つ伊欄樹が生まれてきます。伊蘭の種から、素晴らしい香木の栴檀樹が生まれてくるのを見たことはありません。ところが、私はいま初めて、伊蘭樹の種から、すばらしい香りの栴檀樹が生まれてくるのを見ています。『伊蘭子』とは、まさにこのわが身のことでした。一方、『栴檀樹』は、すなわち清らかな仏の智慧であり真実のいのちです。その『栴檀樹』の香りが、いま私にあるのは、まさしく仏の真実の智慧の賜物でありましょう。これこそまさしく無根の信です。『無根』とは、仏をつつしみ敬うことを知らなかた私のあり様を意味し、また、仏法と僧を信じなかった私のあり様そのものを言うのでありましょう。いま私はその自分の本性を、初めて知るのです。もし、お釈迦さまに会うことがなかったら、私はまさに計り知れない大地獄の苦しみを、未来永劫にわたって受けることになったことでありましょう。しかし、私はいま、お釈迦さまの教えを聞くことを得たのです。実に大きな喜びと爽やかな心地です。私はこの真実の心と新しいいのちの喜びをもって、かつての私と同じように身心の煩い悩みに取り付かれ、人間の罪悪性に苦しむ人々の闇を打ち破りたいと願っています」と。

  すると、お釈迦さまは、その阿闍世の願いを認められ、励まされたのでした。「大王、善いかな、善いかな、我いま、汝必ずよく衆生の悪心を破壊することを知れり」と。すると、阿闍世はさらに申し上げるのです。「世尊、もし我審かによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、我常に阿鼻地獄に在りて、無量劫の中にもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もって苦とせず」と。

 阿闍世のこの表白は、まさしく仏道の真実を顕すものです。この瞬間、阿闍世の国の人々はあげて、真実の智慧を求める歩みを起こすことになり、阿闍世もまた、永遠に真実のいのちを生きることになったのでした。思えば、お釈迦さまは、すでに苦悶する阿闍世のために涅槃に入らずと宣言されていたのでした。そのお釈迦さまの教えを聞いた阿闍世は、人々が地獄の苦しみから解放されるなら、自分は永遠に地獄の苦しみを受けても、決して後悔することはないと決意することになったのです。これこそが、まさに仏教の悟りです。

 ここに改めて、親鸞聖人の『高僧和讃』が思い起こされます。親鸞聖人は曇鸞大師の教えを讃えて、その『高僧和讃』に次の和讃を詠まれていたのです。その一部です。

 弥陀の回向成就して/往相還相ふたつなり/これらの回向によりてこそ/心行ともにえしむなれ

 往相の回向ととくことは/弥陀の方便ときいたり/悲願の信行えしむれば/生死すなわち涅槃なり

 還相の回向ととくことは/利他教化の果をえしめ/すなわち諸有に回入して/普賢の徳を修するなり

 阿闍世の願いは、まさしく阿弥陀の根本的な願いに応えるものだったのです。「往相即還相」です。さて、以上をもって、八章の読み解きは終わりにしたいと思います。ここにいつものように、この八章に対応している一八章を上げておくことに致します。一八章には、次の異見が見つめられているのでした。 仏法のかたに、施入物の多少にしたがいて、大小仏になるべしということ。この条、不可説なり、不可説なり。―いかにたからものを仏前にもなげ、師匠にもほどこすとも、信心かけなば、その詮なし。一紙半銭も、仏法のかたにいれずども、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にてそうらわめ。すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆえに、同朋をいいおどさるるにや。 この一八章の文意については、もはや詳細に説くまでもないものと思います。念仏を私物化する闇がここにあります。八章はその人間の私物化の闇を、根っこから抉っているのです。

八章の意訳

念仏は、行者が私物化していい行ではなく、善でもありません。私たち行者の計らいによって行ずるのでないのですから、行者にとっては、非行です。また私たちの計らいによってつくる善でもないのですから、私たちにとっては非善というほかないのです。念仏はひとえ他力であって、自力を超えているのですから、私たち行者にとっては,まさしく非行非善にほかならないと言っていいのです。これがお言葉でした。