『時代によみがえる歎異抄』  高 史明

歎異抄 第九章

一 「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また、浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」と云々

 久遠劫 はかることができないほど遠い過去。劫は長い時間を表す単位。
 娑婆 釈尊が衆生を救うために教化した世界。この世。 深い自己凝視

 さて第九章にきました。長い道のりのようでもあり、またあっという間のことのようにも感じられます。ともあれ念仏の真実を求める旅も、ここに大詰めを迎えたと言えましょう。ところで、この章では、その冒頭に唯円の名が登場しています。この章の扉は、まず唯円のことを考えることから始めたいと思います。

  唯円房はすでに触れていますが、三十代の悩みの深い壮年期に、親鸞聖人から直接に教えを聞くことになった人物でした。『歎異抄』は、その彼によって世に送り出されたということが、今日の定説です。また、その動機ついては、先に前序の言葉において見たとおりです。唯円房は親鸞の亡き後、四半世紀になる頃から、自らの身辺に「自見の覚悟」がいよいよ強まってくるのを見たのでした。「口伝の真信」が、次第に見失われていたわけです。例えば、十一章では、「一文不通のともがらのー」という書き出しをもって、人間にとって根本的な文字の知恵に絡まる闇が見つめられていました。人間にとって、文字とともにある知恵は、もっとも基本的なものです。

 しかし、そこに人間を字知り顔にする闇が潜んでいたのでした。唯円は、その根本的な闇を、師の「口伝の真信」を鏡として、改めて見つめることになったのでした。第一章の冒頭の「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて−」とは、まさしく人間にとつてもっとも根本的な知恵の闇を、仏の智慧によって超えてゆく最初の第一歩だと言えましょう。この一歩こそは、まさに個人と人類のもっとも基本的な課題です。

 『歎異抄』の前序は、まさしくこの人間の根本的課題の扉を開く言葉だと言えましょう。「口伝の真信」か「自見の覚悟」かです。 ところで、『歎異抄』には、この前序とともに後半の十八章の前と後に新しい序文がおかれているのでした。言うなれば、『歎異抄』の全体は、この三本柱に支えられているのでした。とりわけ、前序と後序は、全体の構造にとってなくてはならない柱だと考えられます。ところで、その後序には、次の言葉が記されているのでした。

  「露命わずかに枯草の身にかかりてそうろうほどにこそ、あいともなわしめたまうひとびとの御不審をもうけたまわり、聖人のおおせのそうらいしおもむきをも、もうしきかせまいらせそうらえども、閉眼ののちは、さこそしどけなきことどもにてそうらわんずらめと、なげき存じそうらいて、かくのごとくの義ども、おおせられあいそうろうとひとびとにも、いいまよわされなんどせらるることのそうらわんときは、故聖人の御こころにあいかないて御もちいそうろう御聖教どもを、よくよく御らんそうろうべし。―」

 「露命わずかに枯草の身にかかりて−」とは、何という言葉でありましょう。『歎異抄』は、親鸞語録であるとともに、まさしく唯円房の遺言によって支えられていたのでした。唯円がこの言葉を『歎異抄』の後序に書き付けていたとき、彼の前には亡くなって四半世紀の時の経過にもかかわらず、亡き師の親鸞の姿がありありと見えていたのではなかったでしょうか。彼はその亡き師の言葉を一つ、また一つと『歎異抄』に書き記していったのでした。その言葉は、まるで親鸞が目前にいて語るかのように正確です。きっぱりとしています。

 確かに唯円は、四半世紀のときを超えて、改めて親鸞と向かい合っていたのでした。ここに仏と仏が、会い語りあっている世界が開かれているのです。そのとき唯円房の眼底には、亡き師の姿とともに深い涙が溢れあがっていたのではないでしょうか。鎌倉期の地獄を生きた親鸞の一生は、実に厳しいものでした。末法の比叡の山を捨て、法難によって朋友が死罪となってからは、鍬一本を手に妻の恵信尼とともに常陸へと向かっているわけです。唯円は、その親鸞の心底に蘇り、生き返っている念仏の声を聞いたのでした。阿弥陀が親鸞に還り、その親鸞は浄土に往くと同時に唯円の元に還っているのです。それこそが阿弥陀の回向です。

 仏教には「往相即還相」という言葉があったのでした。 第一章では、「弥陀の誓願不思議」という言葉を先頭にして、阿弥陀の智慧を根本的開示してゆく師の言葉が思い返されていました。第二章では、関東からきた唯円らの問いに答える形で、親鸞自身の阿弥陀の真実との出会いが語られ、その厳しい言葉が唯円によって思い返されていました。阿弥陀の真実を「ただ念仏のみぞまこと」と聞いて、深く頷いた親鸞の根本体験はまことに感動的だったと言えます。 第三章では、阿弥陀の智慧を鏡として人間の善と悪に呪縛された知恵の闇が抉られ、第四章では、仏教が学問一辺倒になってゆく人間の業を抉りつつ、浄土の慈悲という言葉でもって、改めて仏教の「いのち」の大地が開示されていました。

 「濁世の起悪造財罪は/暴風駛雨にことならず/諸仏これらをあわれみて/すすめて浄土に帰せしめり」=「高僧和讃―道綽禅師」

 また、念仏の功徳が、一切の生きとし生けるもののいのちの縁を貫く仏の智慧とともに開かれ、六章では、「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」という言葉でもって、人と人の繋がりの根本が思い返されていたわけです。 唯円房にとって、この各章の言葉は、まさにそのまま亡き親鸞の姿そのものであったことでありましょう。七章では、「念仏者は無碍の一道なり」と頷き、八章に至って、「念仏は行者のために、非行非善なり」という師の言葉が噛み締められていたわけです。 そして、この九章です。これまでは、いわば親鸞一人の世界でした。しかし、ここに唯円自身が登場することになっています。その意味は何でありましょう。

 思えば、『歎異抄』の後半の十一章から十八章までは、いわば一章から八章までを鏡としてみつめられた「自見の覚悟」だったのでした。その自見は、もっぱら唯円によって見つめられてきた他者の異見であったと言えましょう。 しかし、ここにきて、唯円は、自らを親鸞の前に投げ出しているのです。唯円は若き日のあるとき、直接この問いを親鸞に申し上げたのでした。きっとそうです。そして八十歳を迎えたいま、自らの死期を感じることになって、改めて同じ問いを師に問わざるを得なかったのです。

 「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかなそうろうこ−」です。まさにこれこそ、人間にとっては根本的な問いでありましょう。唯円は十一章から十八章までの異見を見つめてきて、ここに自らの全身を師の前に投げ出ささせれるを得なかったのではないか。まことに尊い問いです。万人の問いだと言えます。

  「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」 いや、唯円房のこの問いは、唯円自身の全人間的な問いであるとともに、また全人類的な問いだと言えますまいか。死とは何か、生とは何か。それがその幅一寸を残すばかりとなった人生の峠に立つことになったとき、万人が自らの心底に、この深い問いが蹲っていることを意識することになるのではないでしょうか。

 人間はきっと、この人間存在の全的な問いを通して、改めて私とは何か、他者とは何か、死とは何か、生とは何か、民族とは何か、国家とは何か、人類とは何か、という人間の根本問題を問いつつ、最後の一線をくぐるのです。

  思えば、師の親鸞においても、この体験は根本的だったのでした。いま一度、親鸞の生涯を思い返して見ましょう。親鸞が、法然の教えに帰依していったのは、二十九歳のときでした。それから後の親鸞は、まさに念仏一筋を生きたと言えましょう。にもかかわらず、三十年後の五十九歳のとき、なお念仏一つに徹し切れていなかったわけです。すでに触れていますが、恵心尼の手紙が、その親鸞の根本体験を極めてはっきりと記録していました。

 「念仏もうしそうらえども――」とは、唯円のものであると同時に、まさに親鸞の問いであり、また全人間的なものです。 仏教は、学問ではなかったのでした。また、個の「さとり」に自足する道でもないと言えます。仏道が「さとり」への道とされとき、まさにその道が末法への道となったのでありましよう。「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをひらくとならいそうろうぞ」とは、まことに深い言葉です。第九章は、それまで論理の言葉でもって見つめられてきた阿弥陀の真実が、ここでいま一度、唯円自身の生身で確認することになっている章です。

 唯円が書き付けた「あとがき」にはまた、次の言葉があるのです。「かなしきかなや、さいわいに念仏しながら、直に報土にうまれずして、辺地にやどらんこと。一室の行者のなかに、信心のことなることなからんために、なくなくふでをそめてこれをしるす。―」 思えば、親鸞が晩年に全力を注いだ『教行信証』もまた、同じ構造を備えていたのでした。すでに触れていることですが、親鸞は、『教行信証』において、信心の世界をいわば論理的に解明しつくした後、自らを阿弥陀の信心の真実の前に投げ出していました。親鸞聖人が「信の巻」に置かれた深い表白の言葉を、繰り返し思い返して見たいものです。

  「誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と」 まことに深い自己凝視です。仏教とは、まさしく阿弥陀仏の慈悲を生きる道であったのでした。『歎異抄』で言いますなら、論理的緻密さを備えた一章から、八章までが言葉による仏教の真実の開示であるなら、それはそのままあらゆる人間存在によって、時々刻々に働くいのちの事実として確認されていることでもありましょう。それこそが阿弥陀の慈悲です。

 「如来ともうすは諸仏をもうすなり」という言葉も、親鸞聖人にはありました。 唯円を包みこむ優しさ  さて、九章を開くとともに、長々と回り道をしましたが、以上の点を念頭に置いて下されば、この九章の冒頭は、いかにも自然に頷けてくるのではないでしょうか。唯円房は、親鸞の浄土の真実を説く言葉に頷くことが深ければ深いほど、念仏を称える自分に、どうして歓喜が湧き上がらないのか不安だったのでした。ましてや急いで浄土に往きたいという思いなどは、とうてい起きようもなかったわけです。唯円は『歎異抄』に親鸞聖人の教えを刻みこんでゆきながら、死期を前にして、改めて師との出会いの最深部の教えを、わが身のこととして噛み締めることになったのです。

 ところで、親鸞は、この唯円の問いに何と答えるのでありましょう。「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」というのが親鸞は答えたのでした。親鸞の一生もまた、その問いとともにあったわけです。唯円の問いを聞いたとき、親鸞はきっとその苦難の一生を思い浮かべたに違いありません。すでに述べましたように恵心尼の記録は、その親鸞の語る根本体験でした。あるいは、そのとき親鸞は、阿弥陀の慈悲を深く開示している阿闍世の「無根の信」を、思い起こしたことでもありましょう。親鸞の眼差しによるなら、親殺しの阿闍世は、すでにして阿弥陀の慈悲を刻々に証明しつつある人間の闇の代表者でした。

 「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」とは、まさに阿闍世の闇と、そのいのちの転生を見届けた親鸞の深い優しさの現れだと言えます。 唯円はこの親鸞の言葉が、枯草の露にも等しいわが身のいのちに響いたとき、若き日の対面を思い起こし、そこに阿弥陀の涙がかかるのを覚えたのではないでしょうか。また、その唯円の眼底に浮かぶ親鸞の顔は、穏やかに澄み切り、その細い両眼には、彼方からくる微かな光すら浮かんでいたことでありましょう。まことに深い仏縁であり、まことに深い師弟の対話です。

 この親鸞と唯円の問答は、すでに仏と仏の人生問答だったとも言えます。そして、唯円はさらに、その先につづく親鸞の声を聞いたのでした。 「よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」

 どうだね、唯円―よくよく考えで見ようじゃないか。私たち人間中心の善は、一人殺せば殺人犯、一〇万人、百万人を殺せば、将軍になる善ではなかったかね。だから、ほんとうに喜んでいいことが、喜べないわけだ。中身が悪人なんだね。だが、阿弥陀は、そんな私たちの心身が、悪臭を放つ苦悩の塊になっていることをよくご存知なんだ。だから、煩悩具足の凡夫といわれているのではないか。阿弥陀仏の願いは、どこにも助かりようのない私たちのためのものでありましょう。悲願とはいい言葉じゃないか。阿弥陀さまは、譬えていえば、いつも親に背いていくばかりの私たちを見つめて、しかも涙して下さっているんだね。なんともあり難く、頼もしいことではないか。 これが唯円の問いに対する親鸞聖人の応えです。

 その親鸞聖人の声が時の隔たりを超えて、いま改めて私たちにも聞こえてきます。思えば、現代人とは「往生」ということを、死ぬことのように思っているのでした。では、「死」を知っているのでしょうか。その漢字は知っていても、その深い意味は返って見失われているのではないでしょうか。生きていることに、本当の喜びはあるのか。人間の生は「四苦」の坩堝です。それ故に助けを求めるのですが、その一方で「四苦」の生にしがみつきます。その根本原因が、文字とともにある人間の知恵の無明にあるにもかかわらず、今日までの人間は人間中心にその知恵を、いかに磨くかに囚われつづけているのでした。

 仏の智慧は、その人間のあり様を深く見通していたのでした。苦しいときは苦しい、悲しいときは悲しいと泣けばいいのです。そのとき私たちの涙はまた、必ず仏さまの慈悲の涙と一つになるのではないでしょうか。また、その涙が苦しみの人々の涙と重なる涙となるのです。

 いま少し、親鸞聖人の声を唯円とともに聞いて見ましょう。 「また、浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。」と親鸞は言います。仏さまの世界に背を向けていながら、ちょっとした病にでもかかると、すぐにもう死ぬのではないかと不安になるではないとか言われている。

 そして、親鸞の言葉は、さらにつづいてゆくわけです。「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり」

 唯円房は、この親鸞聖人の声を思い起こしながら、深く静かに頷いたのではなかったでしょうか。人間の煩悩は、まことに底知れない深さでした。生死流転の迷いにしがみつき、その一方で真実のいのちの世界には背くのです。しかし、いのちとは決して私物化できるものでなかったのです。善人であれ、また悪人であっても、いつかはいのちを私物化している人間中心の知恵が破れる日を、必ず迎えることになるのです。そのとき人は、一人の漏れもなく、必ずひとりでに仏の真実のいのちの世界に渡ることができるのでした。

 阿弥陀の智慧は、他力の行者を包み取るだけでなく、自力の行者をも包み取るのです。この根本への見定めが開かれるとき、いよいよ他力の真実が光となりましょう。そのときはまた、自力の人間であっても、他者と手を取り合い、本当のいのちの喜びを分かち合えることになるはずです。

仏さまの涙

 実は、私にはこの九章にかかわって、忘れられない仏縁があるのでした。ここにその仏縁をお話して、九章で展開されている親鸞の言葉に、いま一歩踏み込んで見たいと思います。かつて、わが家では『歎異抄』を学ぶ小さな集まりがつづいていたのでした。その集まりが、何年目になったときでしょうか。みんながそれぞれに申し合わせたのでした。私たちが現代のこの科学技術の時代に、『歎異抄』を学んでみようと思い立ったのは、どういう思いからであろう、それを一つ文字にして書いてみようということに。

 人生はいろいろです。ある人は、老いに悩み、そうかと思うと、子どもに悩んでいました。私自身は、亡き子に『歎異抄』の前に連れてこられていたわけです。もちろん、中には人生論の探求にきておられた方もいました。あるいは社会的観点から、仏教を学ぼうとしていた人もいたのであって、そこにはさまざまな人生の形が集まっていたとも言えます。一月ほどで、ほぼ全員の短文が集まりました。ところが、一人だけ、約束の期日が過ぎても、その短文を提出しない人がいたわけです。春先に決まっていたものが、夏が過ぎても提出されませんでした。秋になっても、まだです。そして、十月も末近くになってからです。やっと書いてきた。

 小島秀隆君です。その彼が書いた短文の表題は、「光への道」でした。私はその小島君の文章を読んで、やっと胸を撫で下ろしました。いや、深く頷いたものです。小島秀隆君は高校時代から、禅の世界に惹かれていたのでした。「現代に生きる者として哲学的な禅の世界は入りやすかった」と彼は書いていました。これが彼の仏道の第一歩です。しかし、十数年の時を経たとき、彼は人間の根本矛盾を意識することになったのでした。真実行としての座禅と、現代という時代の間の壁が超えられなかったというのが、彼の言葉です。「私の肉体の深い処では、生活と行がバラバラになったままで、それが一つになる処を見出すことができなかった」というのです。

 そして、わが家の勉強会に顔を出すようになったのでした。しかし、ここでもこころの闇は、晴れることはなかったわけです。その頃、わが家では、S先生の「浄土論註」の講義が行われていたのですが、彼には次から次に疑問がわきだし、その疑問を辿ると、深い霧に突き当たり、行き場を見失うほかなかったと言うのです。「一体どこに出口があるのか、毎日無為に過ごして、このまま老いて死んでいくほかあるまい」とも書いていました。

 ところで、その悩みの最中の頃です。彼は、恐ろしい出来事に見舞われたのでした。彼は何人かの仲間と、学校から弾き出された子供たちや、自閉症、ダウン症といわれている子供たちと付き合っていたのでした。そして、突然の悲劇に見舞われたのです。家庭内暴力で精神病院に入院させられていた青年が、ボランテイアの人と話し合いをしているとき、急に不安定になって黙りこんでしまい、そのままゆっくりと六階の建物の縁にゆき、そこからあっと言う間もなく飛び降りるという出来事が起ったのです。青年が一命を取り留めたのは幸いでした。その不幸が、小島君にとって、深い衝撃となったわけです。彼はその瞬間、その場にはいなかったようですが、飛び降りの青年の出来事を自分の責任と受け取ったのです。それが長い間、禅の修行を積んできた彼のこころの形だったのでありましょう。人と人、死と生を、いよいよ深く根本から考えないではおれなくなったのです。いわば根源的な体験が、彼の意識に浸透しのだとも考えられます。

 そして、彼は私の言葉の知恵にかかわる本を読んだのでした。そこからまた、さらに『歎異抄』へと進み出たわけです。それこそ彼の心底に起きた命がけの問いへの歩みだったのでないでしょうか。小島秀隆君の文章には、その経緯が書かれてありました。また、その過程で意識されることになった自らの人生の課題が提出されていました。 「ことばを超えるのではなく、越えられぬ自己を知らされていくということは、私にとって道を反対方向に歩きだすと言うほどの違いがあった。そこではじめて、道が親しいものとなってきました」と彼は書いているわけです。

 また「重い障碍を持つ子供や、学校に通えなくなってしまった子供たちとつきあうとき、人との比較というものを持ち込めなくなります。いかに自分が、世間的価値観に縛られているかが露わにされます」という問題意識も書いていました。 そして、『歎異抄』の九章との出会いを書いていたのでした。彼は恐ろしい不幸に遭遇して、初めて唯円の「念仏もうしそうらえども――」という言葉がこころに響いたのでした。その意味は、そのとき初めて親鸞の応えが見えたと言うことでもありましょう。

 「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」というあの親鸞の応えです。 小島君はこの言葉を抜き書き、さらにその流れにおいて、次のように書き止めていました。「見えないから見えるように、という方向ではなく、――見えぬ自分を奥底から慙愧する。そこでは物事の見えぬ自分が、むしろ真実に生きることの根拠に転換されています」と。実に深い眼差しです。人間にとっての見えるとは、何であるかがよくよく教えられます。私はこの文章に深く胸を打たれました。彼がなかなか約束の文章が書けなかった理由のすべてが、ここでやっと頷けました。

 「見えないから見えるように−」という方向は、近代の人間中心の知恵の方向なのでした。その方向では、六階から飛び降りた青年とのいのちの交換は成立しなかったわけです。この発見こそが、新しいいのちの再生の転換点です。それが始まったのです。

 だが、彼はこの文章を書いて、百三十日余りしか生きなかったのでした。この文章を書いて、五十日ほどの時が経過したときです。その日、彼は人生のもっとも深いこころの道連れのご夫人にお尻を叩かれて、病院を訪ねたのでした。風邪が、いつまでも抜けなかったからです。ところが、病院に着いてみると、その病名はなんと急性白血病だったのです。即刻、入院でした。そして、八十三日目に、還浄の身となったのです。

 あっという間のことでした。しかし、彼はこの病床にあって、さらに大切な教えを私たちに残したのでした。例えば、入院当日の心境について、彼は残された日記に次の短い言葉を記していました。「生きている間は、色いろなことに縛られている。何もかも放擲して生きるには、病気にでもならねば無理だ。ようやく仕事のこと、子供のこと、また自分を考えさせられる時間がベッドに横になりはじめて与えられる」と。確かに何事もない日常にあるとき、人間はその生と死を真剣に考えることはないわけです。そして、何に突き当たるか。彼の日記の言葉です。

 「私には思い残す事ばかりだ」。ひょっとして、彼は入院の当日から、すでに近い死の予感があったのでしょうか。それに続いていたのは、ご夫人のこと、子供のこと、大事な友人のことでした。みんなを気遣っているわけです。私たち夫婦との縁についても、暖かく思い返していました。 そして、詩の言葉がありました。「涙の海、心の奥に涙の海がある」と。つづいて「悲嘆の海の中で」と書いていましたが、それを消して、「私はよみがえる。清められる。悲しみをズーッと通って海に至って力が抜ける」と書き、「私はよみがえる」を消していました。この切れ切れの言葉を彼は、次の言葉で閉じていました。「この涙は佛の涙なのだろうか?」

 このとき彼は、仏さまを思ったのではないでしょうか。 それから八十日ほどは面会謝絶でした。私が次に会えたのは、亡くなられる三日まえです。私と私の連れ合い、勉強会の仲間の人、その三人が病室に入りますと、奥さんとお嬢さんがいました。彼の顔は、高熱がつづいたせいからでしょうか、能面のようにかさかさに乾いていました。

 私は枕もとに座って、小島秀隆君の手を取りました。その手も乾いていました。何も言うことができません。私はこころを励ましました。彼の人生の向きは、あの九章に触れたとき、その向きを変えていたわけです。私はほとんど無意識にそれが思い出しながら、九章を読みましょうか、と言いかけました。乾いた顔は古い能面のように無表情でした。が、微かに頷きました。私は手を静かに握ったまま、『歎異抄』を読みました。小島君の顔は、まっすぐ上に向いたままでした。

  「『念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん』と、もうしいれてそうらいしかば、『親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり』」と私は読みました。 その瞬間です、彼の乾いた眼に一粒の涙が光りました。その光が静かに溢れあがるのです。涙は彼の頬をゆっくりと流れました。私は小島秀隆君の涙が、私の眼に重なるのが感じながら、読みつづけました。私が小島秀隆君の顔に明るみを感じたのはそのときでした。乾ききっていた顔に輝きが広がり始めたのです。ベットの向かいの奥さんとお嬢さんが、不意に泣き崩れました。嗚咽が床から、病室の壁を伝いあがります。

 私は読み続けました。 「――なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし』と云々」

 そのときです、小島秀隆君の乾いた顔に深い微笑が、静かに浮かびあがりました。私優しい眼差しを向けるのです。小島君の頬を伝う涙が、私の胸底にも伝い始めました。その涙こそは、彼が入院の日にその手帳に書いた「佛の涙」だったのではないしょうか。人の世には、確かに仏さまの涙があるのです。人間は、泣く存在です。人によっては、「娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに」という言葉を、まるで臨終往生の勧めのようにも受け取って、この言葉については、唯円の創作であって、けしからんという意見もあるやに聞いています。そして、実際に親鸞は、臨終往生を否定しているのでした。

 例えば、『末燈鈔』において、親鸞は述べています。「臨終ということは、諸行往生のひとにいうべし。いまだ、真実の信心をえざるがゆえなり。また、十悪五逆の罪人の、はじめて善知識におうて、すすめらるるときにいうことばなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚のくらいに住す。このゆえに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり」と。

  だが、その親鸞においては、臨終と言い、あるいは真実の信心と言うことがあるとしても、それはいずれも常に絶対他力の働きを見つめてのことでありましょう。その生死の極みに感得される絶対他力において、自力と言い、他力と言うわけです。自力といい、他力ということがあっても、そのすべてはまさしく阿弥陀の智慧なのでありましょう。決して人間中心の言葉の知恵ではなかったはずです。それは仮と意識されていることがあっていいのです。

 『末燈鈔』には、また次の言葉もあるのでした。 「選択本願は、有念にあらず、無念にあらず」と。「ちからなくしておわるときに」とは、まさしく阿弥陀に見つめられている私たちです。阿弥陀が私たちを包んでくれるのです。この言葉は唯円の創作というものではなく、むしろ、この言葉において、親鸞の唯円を見つめる目は、いっそう深い優しさを湛えることになっていたに違いないのです。その親鸞の眼差しを想像しながら、いま一度、「娑婆の縁つきて」の前後を見つめると、仏の光が見えてきます。 「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり」。そして、親鸞は唯円に告げたのでした。「いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり」  親鸞はまさに、私たちに向けられている阿弥陀さまの眼差しを、ここに開示しているのです。親鸞の往生極楽への歩みの深さが、しみじみと思い返されます。

 小島秀隆君の死期を目前にした眼の涙は、まさしく阿弥陀の慈悲の輝きだったと思います。微かに動いた彼の唇には、念仏があったに違いないのです。その声のない念仏こそが、私たちの言葉の知恵を打ち破り、真実の世界を開示してゆくのです。念仏をも私物化してしまう私たちは、まさしく阿弥陀の眼差しを通して、真実のいのちへの道に踏み出すことができるのでありましょう。その阿弥陀の慈悲の深さを感じ取って、いよいよ深く真実のいのちへの歩みを進めるか、この十章の言葉を文字に囚われて唯円の創作と見るか、さらにはこの仏の慈悲を自分一人の慰めに封じ込めてゆくか、それはもはやそれぞれの人の受け取りよう次第と言うほかありません。改めて「ただ念仏のみぞまこと」の真実を噛み締めることです。

 『歎異抄』は、まさしく並々ならぬいのちの願いともに誕生しているのでした。この書が七百年以上に渡って読み継がれていることは、まさにその願いの深さを示すものではないでしょうか。ある人は、個人の安心において読んだことでありましょうが、その安心を一人占めにすることなく、念仏往生の真実を人々とともに生きて、時代の困難を開く力とした数多くの念仏者が、ここに改めて思い返されます。

 小島秀隆君の声のない念仏こそは、まさしくその念仏者の念仏だったに違いないと確信します。さて、以上で、九章について思うことはすべて言い尽くしました。九章には、対応する十九章はありません。このまま意訳に入ることに致します。

  九章の意訳

「念仏を称えるのですが、踊りあがりたいような喜びも、跳ねまわりたいような歓びもこみあがってきません。また、光にみちた浄土に急いでゆきたいというこころが私には起きてこないのですが、このこと、どう考えればいいのでしょうか」と申し上げましたところ、親鸞聖人は次のようにお応えになられたものです。「親鸞もそれが不審だったのですが、唯円房も同じ思いを懐いているのですね。しかし、よくよく考えて見れば、天におどり、地に跳ねていいほどの喜びがよろこべない私たちだからこそ、私たちの往生はいよいよ定まっていると考えていいのです。喜んでいいはずのことを抑えて、喜びにしないのは煩悩のなせることです。それをかねてご承知であればこそ、仏は私たちのことを煩悩の虜になった凡夫と言われているのでありましょう。そうであれば阿弥陀の他力の悲願は、まさに私たち凡夫のためのものだと考えられてもきますし、いよいよ頼もしく思えてもくるというものです。私たちは、浄土にいそいでゆこうと思いがない一方で、ちょっとした病にでもかかると、すぐに死の不安に取り付かれて心細くなるのでした。それも煩悩のせいです。私たちは久遠の昔から、繰り返し巻き返し流転してきたこの苦悩の娑婆は捨てがたいのでした。また、いまだ生まれていない阿弥陀の浄土は慕わしく思われてこないのです。まことに煩悩とは、燃え盛る火のようなものだと言うほかありません。とはいえ、いかに名残惜しい娑婆ではあっても、その縁がつきて、ちからなくして終わるときがくれば、彼の地には必ず往くことになるに違いないのです。阿弥陀はいそいで往きたいというこころのないものを、ことのほか哀れまれているのでした。それが信じられるなら、阿弥陀の大きな慈悲をいよいよ恃みとすることができ、往生もまた、確かに定まっていると頷けてくるはずです。踊躍歓喜のこころもあり、いそいで浄土にゆきたいということであれば、はてこの人には煩悩がないのであろうかと、あやしく思われてくるのではないでしょうか」これがお言葉でした。