『時代によみがえる歎異抄』  高 史明

歎異抄 第十章

一 「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。そもそもかの御在生のむかし、おなじこころざしにして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまわりしかども、そのひとびとにともないて念仏もうさるる老若、そのかずをしらずおわしますなかに、上人のおおせにあらざる異義どもを、近来はおおくおおせられおうてそうろうよし、つたえうけたまわる。いわれなき条々の子細のこと。

 御在生 親鸞が生存していたころ。
 遼遠の洛陽 関東より京都をさして述べた言葉。遠くの都
 当来の報土 将来に往生すべき浄土。報土は真実報土をさす。
 上人 親鸞をさす。

義の世界の限界

 さて最後の十章になりました。親鸞聖人は念仏の真実を説いてきた九章までの言葉の一切を、ここにきてこの「念仏には無義をもって義とす」の一言に収めきっているのでした。いかにも簡潔な結語です。背筋がしゃんとなります。とはいえ、あまりに簡潔すぎて、何処から取り付いていいのか、途方に暮れてしまいそうな気がしないでもありません。

 だが、思い返してみれば、私たちは九章までの各章において、すでに念仏を鏡としてさまざまな角度から、「義」とは何かを教えられてきたのでした。義とは、道理、あるいは言葉の意味ということでした。第二章で言いますと、「法文等をもしりたるらんと」という言葉で語られていた学問こそは、まさしく精密な言葉によって構築された義の世界にほかなりません。また、三章で考えるなら、世間における善悪の基準が、「世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。―」という義の言葉で捉え返されていたわけです。

 世間とは、まさしく「道理」という「義」によって支えられているのでありましょう。そこでは善人こそが、悪人に勝るものとされているわけです。しかし、人間は自らの「義」を絶対化してゆくのでした。言葉を代えて言うなら、自らもまた自然からきたものが、自然を対象化することによって、自分自身のほんとうのいのちを見失ってしまうわけです。それこそが人間の迷いです。人間は自ら「義」を紡ぎ出し、その義の世界を住まいとしていながら、その義に一生を振り回されているのだと言えましょう。 例えば、人間はその義にかかわる知恵によって、死が分かったつもりですが、果たして死が分かっているのでしょうか。

 人間の分かる知恵は、人間の生を対象化し、さらに「死」という漢字を作り出すことによって、かえって自ら死を見失うことになっていると言えますまいか。現代人は一般的にいって、「死」という漢字を前にしたとき、何を思うのでありましょう。無とか、あるいは物というイメージで死を考えるのです。人間、死んだらゴミになるという言葉もありました。

  しかし、「死」という漢字は、肉をそぎ落とした後の骨と、その骨に膝づいている生者からなるのでした。死者と生者の出会い、さらに言うなら、骨とその骨に跪く生者、その象形が「死」という漢字であるわけです。そして、このイメージこそはまた、人間の歴史の第一歩でありましょう。どの地域の人間の歴史にも、死者を弔った痕跡があると言います。にもかかわらず、人間中心の現代人は、死という漢字が読めても、もはや死者に跪くこころを失っていると言っていいのです。言うなれば、死という漢字が読めることによって、ほんとうの生も死も見失っているわけです。

  例えば、さまざまな死が意味づけられています。事故死、病死、名誉ある死、無駄死、老死、若者の自死という具合です。しかし、その意味付けは、決して死者自らがするものではないと言えましょう。そのすべては、生者が物言わぬ身となった死者に当てはめたものにほかならないのです。死者は、決して自らの死を、自ら意味付けることはしないわけです。にもかかわららず、人間は分かる知恵によって死を対象化して、死が分かったつもりなのです。しかし、その生者中心の眼差しこそは、まさに「死」の真の意味を見失っているということではないでしょうか。

 生者は、死者を対象化することによって、逆にいつも死の不安に取り付かれることになっているわけです。その意味では、人間は生者中心に死を対象化していって、死を見失うことになっているばかりか、生をも見失っていると言っていいのです。人間の生とは、まさに根本的な矛盾を潜めていると言うほかありません。人間とは、まさに悲しい存在です。

 親鸞は『歎異抄』において、その人間の知恵の根本的矛盾を、真実の智慧を明示しつつ、根こそぎに覆していたのでした。「念仏には無義をもって義とす」とは、まさしく人間の知恵の根源的な覆しです。阿弥陀の真実の智慧の開示です。言うなれば、分かる知恵の闇を見つめてきた九章までの言葉が、ここでいま一度「義」という言葉とともに根こそぎに覆されているのです。この一言こそは、まさに真実の生の門です。私たちの分かる知恵からなる義の世界は、確固不動のように見えながら、いかにも脆い「仮」だったわけです。その仮は、まさに涙によって破られるほかないと言えましょう。愛児を失った石川啄木の悲しみが、ここに思い起こされます。

 底知れぬ謎にむかひてあるごとし  死児のひたひに  またも手をやる (ちくま文庫)

 思えば、石川啄木は『一握の砂』の末尾に愛児との死別の悲しみを、上の歌に詠んでいたのでした。人間の分かる知恵にとって、死とはついに見えない謎だったわけです。愛児の死に顔を見つめて、「底知れぬ謎」というほかなかった啄木の悲しみこそは、まさに底知れません。死とは、分かる知恵をいっきに粉砕してしまうのです。「死児のひたひに またも手をやる」とは、なんと深い涙でありましょう。人間は、万人がこの愛別離苦の涙を通して、自らの分かる知恵の限界を教えられてゆくのです。

 念仏がひらく真実のいのち 

  思えば、私もまた、子の死を縁として、分かる知恵を砕かれたのでした。繰り返しですが、この結語の章において、いま少しその頃のことを話してみたいと思います。私たちの子の死は、真夏でした。お葬式が終わって、誰も訪れる人がいなくなってからです。私は外に出ると、いつもほとんど本能的に夏空を見上げたものでした。亡き子が、真夏の真っ青な空に雲となって浮かんでいたのです。なんという悲しみであったことか。空に亡き子の笑顔があるのです。また寝そべっている子の姿があることもありました。ときには、死んだ子が、お空に浮かぶ子犬と遊んでいたものです。深い悲しみは、私の胸底に溢れて、すでにこの世の人でなくなった子の姿を、なお空の白い雲の形に求めさせ、探させたわけです。義の世界は、それが砕かれた後になっても、なお私の全身を捉えて離そうとしなかったのです。

 しかし、その悲しみの涙があればこそ、私は一歩、また一歩と真実に導かれたのでした。その過程には、またいまに忘れられない出会が幾つもあります。「念仏には無義をもって義とす」という一言とかかわって、ここにいま一つの出会いを、話してみたいと思います。私はその当時、お空の白い雲に亡き子の姿を求める一方で、さまざまな本の中をさ迷い歩いたものです。本の中に、亡き子を探し、また、死の意味、生の意味を考えようとしたのでした。

 『歎異抄』を中心にして、いったい何冊の本を読んだことでしょう。「義」の世界を砕かれながら、なお「義」に囚われつづけたのだとも言えましょう。その数多い本の一冊に『維摩経』があります。詳しいことは忘れてしまいましたが、そこで教えられたことの一端をお話して見たいと思います。

  ある日、お釈迦さまが、普賢菩薩や文殊菩薩らを呼んで、唯一の真実とは何かを、お尋ねになったのでした。今日の言葉で言うなら、近代の二元論を否定して、真実の「不二」とは何か、ということを尋ねられているわけです。つまり、存在の真の根っこであり、唯一のものは何か、と尋ねられたのです。弟子たちは、いろいろと答えていました。その番が、最後の文殊菩薩にきたときです。文殊は次のように答えます。「言葉では表現できない」と。後に『中観と唯識』(長尾雅人著、岩波書店)に教えられたのですが、もう少し正確に言うと、文殊の答えは次の通りだったようです。 「一切法に於いて、言もなく説もなく、示もなく識もなく諸の問答を離る」

 すると、釈迦は、さらに維摩詰にも同じ問いを向けられました。釈迦には、文殊の答えが今ひとつ不満だったわけです。維摩詰は口を固く噤んで何も応えません。深い沈黙が、維摩の答えだったのです。だが、お釈迦さまは、そこでやっと深く頷かれるのでした。言葉を離れるということが、言葉によって言われるなら、答えにならなかったわけです。沈黙が正解だった。

 しかし、沈黙が正解だとは、何という問答でありましょう。長い間、私にとつてこの文殊菩薩の沈黙は謎でした。しかも、胸底に深く沈殿して動こうとしない謎だったわけです。いまに思えば、子の死を悲しむこころが、この維摩詰の沈黙に私を引き寄せて、放さなかったのだと思います。維摩詰の沈黙は、まさしくそのとき私が必死に追いかけていた亡き子からの無言のメッセージだったわけです。死とは、言葉の知恵を厳しく拒絶するだけではなく、残された者に無言のメッセージを届けてくれる出来事だったのです。それこそが、深いいのちの働きです。仏さまの目には涙があったのでした。啄木もまた、愛児に死なれ、「底知れない謎」と向かい合ったとき、その涙を頂戴したのではなかったでしょうか。

 人間はその悲しみの涙に導かれて、真の世界へと導かれてゆくのではないでしょうか。死と向き合って、心底に悲しい謎を抱えるほかない者は、万人がその深い謎もろとも仏さまの涙に洗われてゆくのです。まことに悲しいことです。とはいえ、意味の世界に生きるほかない人間は、まさにこの仏の涙を頂戴することなくしては、根本からの転換はできないと考えられます。それどころか、その涙をも自分中心に泣くことになって、いよいよ自分中心の闇を深めることにもなってゆくのです。涙とは、仏さまからの貴重な賜りものだったのでした。いま一歩踏み込んで言うなら、仏さまの涙に洗われてゆくとき、永遠の彼方に去ったはずの子が、向こうから、目の前にきてくれるということです。言葉の知恵、義の世界だけが、人間の世界ではなかった。「無義をもって義とす」というこの一言が、今にして胸に沁みてきます。

  思えば、親鸞が、浄土教の高僧の筆頭にあげている龍樹には、すでに「空無自性」という眼差しがあったのでした。「空性の成立つ所に、一切は成立つ。空性なき所には、一切は不合理である」と彼は言うのです。「空」こそは、万物の古里だったのです。「義」とは、その空をすら意味づけることによって、実は自らその存在の古里を喪失してゆく闇を潜めているとも言えましょう。義に囚われてゆくとき、空をも義にかえて、いずれその義もろともに自ら「空」に吸いこまれるほかないことにもなりましょう。にもかかわらず、人間は、その「義」を絶対化してゆくのでした。その結果が、人間の生と死に分裂した生です。まさに「義」の世界は、合理的であるが故に根本的な不合理となるほかない人間の知恵の矛盾の極みなのだと言えます。

 ここに親鸞聖人の最晩年の和讃が、改めて思い起こされます。

  よしあしの文字をもしらぬひとはみな/まことのこころなりけるを/善悪の字しりがおは/おおそらこどのかたちなり

  ここに文字を通して、文字を超えた世界が開示されています。無垢なるいのちと、真実の自然の開示です。確かに私たちは、善悪の字しりがおをしているのでした。しかも、それを数という正確無比な言葉に磨き上げているわけです。現代文明は、その知恵を駆使することによって、壮大な楼閣を築くことに成功していますが、その楼閣はまた、空中楼閣であって、現代世界は虚空に漂うことになっていると言えますまいか。私たちの現代の根っこにある「義」ついて、いま少し考えて見ましょう。

  先ほどから、私はしばしば「義の世界」という言葉でもって、私たちの分かる知恵の世界を表現しております。その義とは、また言葉からなるものでした。だが、その言葉とは何かということです。『教行信証』に面白い比喩がありました。「空無自性」を説く龍樹は、人間とは、月を教えられると、月を見ないで、月をさす指を見ているといいます。そして、その「指」をもって、人間の世界の言葉であると指摘していました。「我指をもって月を指う、汝をしてこれを知らしむ、汝何ぞ指を看て月を視ざるや」と。つまり、人間とは、月を教えられると、月を指している指を見るばかりで、月そのものを見ようとしていないというのです。その指こそが、言葉です。龍樹の慧眼は、まことに深いと言えます。大人はまさに「指」に囚われているわけです。  その点では、子どもたちの方がはるかに自在です。

 ここで少し気持ちを楽にして、子どもたちにも学んで見たいと思います。私たちの現代を支えている数の知恵は、いわば月を教えられても、月を見ようとしないで「指」を見ている知恵にほかならないと言いました。『星の王子さま』のサン=テグジュペリが、数を鏡にして、大人と子どもの知恵のあり様を、どのように抉りだしていたかについても、思い出して欲しいところです。

 その数とは何かと言うことです。 明治維新の始まる頃の人です。フランスの作家のアナトール・フランスが、「学校」という表題の短編を書いて、そこに実に興味深い挿話を展開していました。主人公はローズ・ブノアという少女です。彼女は、12から4を引くと後に幾つ残るのか、それがどうしても飲み込めないわけです。教えられると分かるのですが、分かった後でまた迷うのです。彼女には、正解の8が分かったとしても、その8が「八つの帽子なのか、八つのハンカチなのか、それとも八つの林檎なのか」それが飲み込めなかったわけです。彼女のこの迷いは何でありましょう。

 数に慣れ切っている大人は、そんなこと子どもの迷いさと、笑って相手にしないかも知れません。しかし、彼女の迷いこそは、人間の迷いの本質を突いているのです。 世界には、ただの8という物は、存在しないのでした。ただの8が存在しているのは、8という記号を発明した人間の世界だけでありましょう。もし、この事実を無視するなら、私たちの世界は、それこそ色もなく、温かさや冷たさもない仮想現実になってゆくに違いありません。

 アインシュタインの言葉も思いだされることです。彼は、数学でもって何もかも表現できるかと聞かれて、答えたのでした。「数学こそは、明快なメスではありますが、その代わり実体がなくなってしまうのが宿命です。生き生きとした内容と明快さは、両立しません。片一方をとれば片一方は失われるのです。このことを今、私たちは実に悲劇的なかたちで物理学で経験しているのです」(『アインシュタイン・ロマン』第一巻、NHK出版)。

 この言葉にも、数の性質が深く語られていると言えましょう。原子爆弾はこの悲劇の象徴ではないでしょうか。にもかかわらず、私たちの現代は、何もかも数で表現しようとしているわけです。家庭も学校も、会社も、さらには社会や国、あるいは国際社会全体も、いまや緻密な数で構成された実験室のようになっているかのようです。

 いや、いまや自然そのものまでが、深く数に侵されていると言っていいと思います。現代文明は、数学的理性が自然を精密に解釈できることを知ると、たちまちにしてその理性でもって自然の征服に乗り出したのでした。その結果、文明世界は、眩しいほど繁栄することになっています。しかし、その一方で、例えば地球全域の森林は、恐ろしいほどの勢いで破壊されることになっています。電気鋸は、何百年という年輪の大木をあっという間に切り倒してしまうのです。巨大な森林が、あっという間に破壊されているのです。

 森林は、光合成によって二酸化炭素を吸収して地球の空気を守っているのでした。森林がなくなると、空気が汚れ、さらに水までが涸れてくることでしょう。にもかかわらず、人知中心の科学文明は、森林を破壊しつづけているのでした。しかも、その一方で、地球の温暖化の元凶でもある二酸化炭素は、ほとんど垂れ流しの状態です。百年前の人間が、今日の状況に当面するなら、それこそ卒倒してしまうのではないでしょうか。南北両極地の氷が溶け出す危険があるというのです。このまま引き続き百年を経るとどうなりましょう。極地の氷の問題もさることながら、温暖化の影響からして、地球の森は壊滅的な打撃を受けるに違いないということも囁かれています。恐ろしいことです。それが今日の現実です。

 しかも、合理的理性の持ち主たちが、この状況に容易に対処できないのです。地球の温暖化は、すでに早くから心配されていたことでした。いまのまま二酸化炭素の垂れ流しがつづくと、五十年後には、少なくとも1・5度の気温上昇があるに違いないというのが、専門家たちの指摘です。それ故に、温暖化防止条約が、京都議定書として国際会議で採択されたのでありましょう。だが、この議定書の発効の前方に大きい暗雲がかかっているのです。世界一の二酸化炭素の排出国のアメリカが、この議定書から離脱しょうとしているわけです。超大国の「国益」が最優先されたのでありましょう。

 この合理的理性とは、いったい何でありましょう。いわゆる「理性」には、それこそ不合理の陰がつきまとっていると言うほかありません。 「空性なき所には、一切は不合理である」という龍樹の言葉が、ここに改めて思い起こされます。言葉の知恵とは、たとえそれが科学にまで磨き上げられても、どこまでも本質的な不合理につきまとわれるのです。私たちの今日は、分かる知恵を絶対化している点から言って、まさにこの「不合理」が極限化されている時代なのだとも言えましょう。人知中心の生き方を切り替えたいものです。 根源的転換を求めて  思えば、近代世界の全体が、自然との共生から、征服の時代へと移行していったのは、決して科学の力が精密で、圧倒的に強かったからだけではなかったと考えられるのです。むしろ、人間が科学のすばらしさに目を奪われ、その知恵に無明の闇が潜んでいることを見失っていたからだったのです。傲慢になっていたのです。その根っこの闇が考えられていいのです。

 思えば、釈迦の時代、あるいはギリシャの時代の人々においても、人間はすでに分かる知恵によって、自然を対象化していたわけです。しかし、その時代の人々には、その人間の知恵の闇を見届ける眼差しがあったと思うのです。例えば、ソクラテスは、その人知の闇にかかわって、政治家と自分との違いについて言っていたわけです。「しかし、彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りもしないが、知っているとも思っていないからである」と。(『ソクラテスの弁明 クリトン』岩波文庫)。

 つまり、人間とは、知りもしないのに知っていると思いこんでいるのであって、それが人知だと言うわけです。この謙虚さが切に求められるところです。さもないと、人知の闇の極限ともいえる人間の死の恐怖は、ついに止むことがないと思えます。死の恐怖とは、いわば対象化する知恵が必然的に潜ませる知恵の闇にほかならないわけです。

  「虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、〈道の人〉ではない。造り出された現象が常住であることは有り得ない。真理をさとった人々(ブッダ)は、動揺することがない」(『ブッダの真理のことば 感興のことば』岩波文庫)  

 現代人はいままさに、この根源的な眼差しによって、己の根っこの闇を原初に帰って見つめていいのです。新しい世紀が始まる今日は、まさにその世界史的な転換点なのだと思えます。人と人、人と自然の真の共生の道は、きっとこの根源的転換から開けるに違いないのです。人間中心の文明がもたらした自然の危機について、先ほどは森林破壊や温暖化による環境破壊について述べましたが、この危機は決して人間の外部に起こっている危機ではないのです。人間そのものが、まずは自然です。自然環境の危機は、真っ直ぐに人間存在そのものの危機となることでしょう

 。いや、すでに子どもたちの心身の危機という形で始まっていると考えてよいのです。自然の破壊は、何時も何処ででも、もっとも弱いところから始まるのでした。 「念仏には無義をもって義とす」という『歎異抄』の結語は、知恵の闇を生きる人間にとって、現代において根本的な転換点の柱ともなることでしょう。

 阿弥陀の真実の智慧は、無明の闇をさまよう私たちに本当の喜びをもたらす大きな船であり、光です。この大きな船こそは、仏教で言う「大乗」です。大きな乗り物です。この乗り物は地球よりも、宇宙よりも大きい乗り物です。私たちはみんなその乗り物に乗ることができるのでした。そうであれば、それはまさに「不可称・不可説・不可思議」と言うほかない乗り物なのだと言えましょう。宇宙より大きい乗り物をどのように説くことができましょう。まさに不可思議なのです。

 さて、以上を持ちまして、この度の縁を一応閉じることにしたいと思います。人間は「生・老・病・死」の四苦を生きているのでした。その人生には、幾多の奈落が待ち構えておりましょう。奈落に落ちることがあったなら、どうぞ『歎異抄』を広げてくださいますよう。私は子の亡き後、『歎異抄』を読むというより、一字ずつ書き写したものでした。毎日、毎日、書き写したのでした。『歎異抄』はその意味でいうなら、眼で読む書物というより、心身を上げて身読してゆく仏教の真実だとも言えましょう。どうにもならない事態に陥ったときには、どうぞ一字ずつ書き写してゆかれますよう。必ずや深いいのちの世界が開かれてくると信じています。そのときは、涙を知る人々とともに、手を取り合って、真実のいのちへの歩みを起こすことができましょう。

 現代世界は、冒頭でも申しましたが、実に深い危機に曝されています。自力の闇が、世界を覆いつくそうとしているのです。それゆえにこそ、いっそう真実の智慧の深まりが願われてなりません。 最後にこの書の全体のあとがきについて一言して、この度の縁を閉じたいと思います。『歎異抄』の全体は、十一章から十八章までの異見に前にして、死期を意識した唯円房が、改めて見つめ直した親鸞聖人の教えの言葉からなっていたのでした。その一章から十章までの言葉は、まさに驚くほかないほどの深さ、大きさだったことが、ここにきて改めて思い返されます。ところで、その全体をとじる最後の「あとがき」の冒頭は、次の言葉によって始められているのでした。言うなれば、この言葉によって十一章から十八章までの異見の根っこが抉られているわけです。

  「右の条々はみな持って信心のことなることによりておこりそうろうか。―」  「信心がことなる」ということ、「あとがき」の冒頭にこの言葉を書き付けた唯円房の思いが、いま改めて胸底に滲みてきます。まさしく「信心」の智慧こそが、奈落の世界の光となるのです。その智慧については、これまでの各章において、繰り返し考えてきました。屋上屋を重ねるようですが、この度の縁の結びとして、ここに親鸞聖人の言葉の二つを抜書きして置きたいと思います。

  「来迎は諸行往生にあり。自力の行者なるがゆえに。臨終ということは、諸行往生のひとにいうべし。いまだ、真実の信心をえざるがゆえなり。また、十悪五逆の罪人の、はじめて善知識におうて、すすめらるるときにいうことばなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚のくらいに住す。このゆえに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだ゜まるなり。―」

  『末燈鈔』からの引用ですが、ここではもはや解説は控えて置きたいと思います。『歎異抄』の全体と合わせて、向かい合われますよう。自ずから頷けてくるものと思います。ところで、この『末燈鈔』には、真実の「自然」に至る道が、次の言葉によって開示されているのでした。最後にその言葉を上げて置きたいと思います。私自身もまた、これからも繰り返し見つめてゆきたいと願っている言葉です。

 「自然というは、自はおのずからという。行者のはからいにあらず、しからしむということばなり。然というはしからしむということば、行者のはからいにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに。法爾というは、この如来のおんちかいなるがゆえに、しからしむるを法爾という。法爾はおんこのちかいなりけるゆえに、すべて、人のはじめてはからわざるなり。このゆえに、他力には義なきを義としるべしとなり。自然というは、もとよりしからしむということばなり。―」

 十章の意訳

「念仏は、人間の言葉の知恵では、どのようにも意味づけることのできない阿弥陀の智慧です。人間中心の知恵では、讃えることも、説くことも、思い計らうこともできないからです。」