『時代によみがえる歎異抄』  高 史明

歎異抄 第一章

  一 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々

 「弥陀の誓願」とは、阿弥陀仏の誓いを意味します。久遠の昔、あるとき法蔵菩薩は、苦しみに満ちた世界を見つめ見渡されて、苦悩する生きとし生けるものすべての救済を願われ、長い時を超えたときの果てにその誓いをついに実現されたのでした。阿弥陀仏とは、その浄土の教主となられた法蔵菩薩の新しい名乗りにほかなりません。人間の世界は、この瞬間から真実の智慧といのちの働く場となったのです。言葉を代えて言うなら、宇宙と地球と人間の歴史は、この瞬間から始まったと言えます。しかも、阿弥陀の智慧といのちの働きは、その開示の瞬間から、いまも刻々に万物を救いつづけているのでした。阿弥陀のいのちの働きこそは、まことに不思議な智慧の働きです。

  とはいえ、現代人は、この「弥陀」といい、また「誓願不思議にたすけまいらせて−」という言葉の前に立たされると、ただ当惑してしまうのではないでしょうか。現代人は、みんな自分中心の知恵によって日々を送っているのでした。その知恵は、いうなれば合理的な理性です。その知恵の前では、「請願不思議」とはいかにも不合理で非科学的です。現代人はおそらく万人が万人、この冒頭の言葉に躓くものと思われます。そして、きっと『歎異抄』に背を向けることになるのではないでしょうか。中世の人々にとってはともかく、科学の時代の現代において、どうして「弥陀の誓願不思議」なるものが信じられようというわけです。

 とはいえ、人間の世界にはまた、その合理的理性だけではどうにも納得できないこともあるのでした。例えば、自分中心に生きてきた者が、その自分の死に迫られたときなどがそうではないでしょうか。死にゆく者にとっては、死とはまさに不合理そのものです。そのときはいかなる合理的理性の持ち主であっても、この納得できない冒頭の言葉の前に、たとえ一時のことではあっても、なお吸い寄せられてゆくことがあっても不思議ではないと考えられます。

  思えば、私が『歎異抄』を手にすることになったのも、まさにその窮地に落ちたときのことでした。いまはもう、半世紀近くも前のことになりますが、いまも私の脳裏には、その最初のときがはっきりと刻まれています。「弥陀の誓願不思議」と言われている冒頭において、私はまず、私自身における『歎異抄』との出会いをお話してみたいと思います。私の人生は、まことに恥ずかしい挫折の連続でした。私は学校教育をろくに受けていない人間です。私はその私にできることとして、まずこの冒頭において自分自身の仏縁を語りたいと思います。この度の縁が仏縁であるとするなら、私たちはきっと、さまざまな困難を超えて、きっと『歎異抄』の扉を開くことができるに違いないのです。

 ひらけない扉

 私が最初に『歎異抄』を手にしたのは、二十歳を過ぎたばかりのときでした。もう半世紀近くも過去のことです。その頃、私はいわゆる社会運動に挫折して、深刻な閉塞感に閉じ込められることになったのでした。自分では良きことをしようと思っていたのに、気づいてみると、悪しきことが積み重っていたわけです。自分と言えるのに、その自分が自分で分からなくなったのです。また、何が善であり、また何が悪であるのかも、分からなくなりました。

 その上、私は朝鮮人であるにもかかわらず、朝鮮語をほとんど理解できないままに大きくなっていたのでした。日本と朝鮮との間の歴史的な歪みが、そのまま私自身の心身の歪みとなっていたわけです。社会運動に挫折したとき、それらの歪みは、いっきに私の全身を閉じ込める牢獄となりました。それは恐ろしい窮地でした。まさに出口なしの感じで、息をつくのも苦しかった。

 そんな時です。ある文芸雑誌で「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉を目にしたのでした。何かが胸底にひっかかってきたものです。その意味もわからないのに、深く引き付けられたのです。私たちの社会の常識では、悪人が善人よりも良しとされることは決してないと言えます。そうであれば、ここは言わば「悪人なおもて往生をとぐ、いわんや善人をや」となるのが常識だと言えましょう。ところが、その常識が『歎異抄』では逆転させられていて、善人より悪人の方がいいとされていたわけです。 その言葉を、文芸雑誌に紹介していたのは、いわゆる日本の特攻隊世代の人でした。その人は、第二次世界大戦のとき、その戦争を聖戦と意味づけていた大人の思想を信じて、その聖戦に殉じようとしていたのでした。

ところが、戦争が敗戦となったとき、その戦争は、決して聖戦と呼ばれてはならなかったことが明らかになったのでした。それどころか、あのいわゆる大東亜戦争は、侵略戦争だったわけです。その人は敗戦の日を境として、時の政治指導者の言うことが、無責任に百八十度転換するという現実に当面したのでした。その瞬間、その人はそれまでの価値観は根こそぎに崩れるのを自分の心身を通して見たのです。自分の生命をかけても、と考えていた善が、一瞬にして悪となったのですから、この崩壊感は当然だったと言えましょう。その人は、この価値観の崩壊とともに生きる意味をも失ったのでした。言うなれば、死ぬことも、生きることも出来なくなったのです。そして『歎異抄』の第三章の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。――」の言葉の前に立ったのでした。この言葉を通して、人間の善とは何か、悪とは何かを考えつつ、新しい生の意味を見つけようとしたのでありましょう。

 私はこのいのちの危機を通して語る人の言葉に、深く動かされました。私もまた、正反対の価値観に立っていたとはいえ、まさしくそのとき自分の価値観の崩壊から、何が善であり、何が悪であるかが分からなくなっていたのでした。善悪の基準が無くなるとは、その人の生の大地の崩壊を意味します。本当に苦しかった。さっそく近くの本屋に駆けつけて、『歎異抄』を求めました。そして、あの冒頭の言葉を目にしたのでした。

 その瞬間、まさに目に固い岩石が突き入ってくるようでした。「弥陀―」私はその岩石のような言葉を突き動かそうとして、思いました。「弥陀―」。繰り返し思いました。「弥陀―弥陀とはなんのことだ?―」。字引を引きました。辞典によると、「弥陀とは、阿弥陀の略」とあります。私はしかし、またしても「阿弥陀」とは何か、と問いを重ねました。阿弥陀とは、梵語の漢訳であって、その意味するところは、無量の寿(いのち) 無量の光であって、いまも西方の極楽世界におられ、刻々に生きとし生けるものに真実のいのちと歓びを恵まれていると読み解かれているというのが、辞典のおおよその読み解きです。

  しかし、私はこの読み解きを前にして、ぃっそう深く息を詰まらせるほかなかったわけです。西方の極楽世界とは、いったい何でありましょう。私にとっての西方の極楽世界とは、永遠の彼方の夢想にほかならなかったわけです。理解の回路がなかったのです。その瞬間、私の時間と空間の感覚は、不意に奇怪な生き物のように歪んだと言えます。とても不安でした。果てしない空漠の世界に連れ出されるようだったとも言えます。何度見直しても、私の全身は、この冒頭を受けつけませんでした。見直そうとすると、吐き気すら起きるわけです。これが最初の出会いです。そしてこのとき、私はついに『歎異抄』を投げ出したのでした。『歎異抄』と自分との間には、何の縁もないように思うほかなかったのです。

  いまに思えば、まさにそのとき私が立っていた場こそが、「自見の覚悟」だったのだと思います。つまり、自分中心の知恵の場が、私の立っていたところだったのです。そして、それから十数年を経て、私は再び、『歎異抄』を手にしたのでした。先に触れましたように自分中心の知恵は、四苦を生きて、末法を深めてゆく知恵だったのです。その知恵を拠り所にしていた私は、何年たっても、私は自分自身に対する自信を回復させることができなかったわけです。それどころか、積み重なる歳月とともに、いよいよ深く自分を見失ってゆき、心身の汚辱もまた、深まるばかりでした。自分中心の知恵の裏側は、汚辱のあわ立つ泥沼だったのです。その汚辱をゆく私を思えば、希望のない二十代のときの方が、よほど純粋だったと思います。それに気づいたとき、私はいつまでも打開できない生活の窮状もさることながら、心底から自分に絶望したものでした。何度も、もう生きていたくないという思いに襲われました。にもかかわらず、死ねなかった。もう生きていたくないと思いながら、逆にいよいよ強くなんの望みもない自分に、しがみついていたわけです。嫌な自分でした。人間の地獄とは、この絶望的な心の中のどうどう巡りのことを言うのかも知れません。そして、三十代もそろそろ終わりにきた頃です。私は再び『歎異抄』を手にしたのでした。

 だが、この二度目のときも、私はやはり『歎異抄』の扉を開くことができなかったと言うほかありません。言葉の難しさということで言うなら、この三十代のときは、二十代のときより、ずっと楽に読めるようになっていました。にもかかわらず、私の前の『歎異抄』の扉は、固く閉ざされたままだったのです。いや、この三十代のときの方が、二十代のときより、『歎異抄』と私の間の距離は、はるかに大きくなっていたという方がいいかも知れません。

  例えば、「弥陀」という言葉や、「誓願不思議」という言葉について言うなら、その前にただ立ち竦むということはもうありませんでした。字引に解かれている意味を、それなりに受け取る素地ができていたわけです。その結果でありましょう。「いずれの行もおよびだかき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」という言葉などを目にすると、なぜかほっとするものすら覚えるようにもなっていました。しかし、人間とは読めるようになるにつれて、ともすると、いっそう深い人間の自分中心の知恵の落とし穴に落ちてゆくのです。読めるようになった私は、読めるようになった自分にいつしか自足するようになりました。「善人なおもて往生をとぐ――」と述べられている第三章とのかかわりで言いますなら、二十代のときには、悪人としか思えない自分を、ただ苦しんでいたのですが、三十代になってからの私は、まるでこの言葉にかすかな慰めすら覚えるようになるわけです。そんなことから、この三十代のときには、二十代のときとは違って、繰り返し『歎異抄』を開くことになっています。まことに自分中心の知恵とは、自分勝手なものです。

  しかし、このときもなお、私は『歎異抄』の扉を開くことができなかったのでした。その頃、長い間苦しかった生活に、かすかな出口の仄明かりが見えてきたということもありますが、もう『歎異抄』を開かなくとも、生活の危機とともに心の危機も乗り越えてゆけるように思い出したのです。だから、繰り返し読んだといっても、その内実は言わば教養としての読書であって、分からなくて苦しんだ二十代のときの方がまだ真剣だったと言うほかありません。そして、何年間は順調でした。生活のめどが立ち、また一人子にも恵まれるということもありました。何もかも順調にゆくようにも思われたものです。だが、自分中心に何かが「分かる」ようになって得る喜びは、風船のように軽いものだったのでした。真の喜びに通じていなかった。それどころか、その何かが解かるように思い始めた「自信」こそは、私の根本的な落とし穴だったわけです。

 三度目の出会い

 四十代に入ってからです。私たちは、突然たった一人の子に世を去られたのでした。しかも、自死だった。私の自分中心の知恵の座は、この瞬間いっきに砕けたと言うほかありません。その子は、朝鮮人の私と、日本人の妻との間に生まれた一粒種だったのでした。日本における朝鮮人の位置は、きわめて不安なものです。私たちの間のその子は、いるだけでもって私たちの固い絆になっていたと言っていいのです。そして、私たちはまた、その子を朝鮮と日本の架け橋のようにも思っていたものです。それが私たちの希望だったわけです。実際、その子がいるということだけで、私は何度こころの危機を助けられたことか。私たちは、それこそその子を胸に抱きしめるように育ててきたのでした。

 そして、その子もまた、すくすくと育っていたと言えます。幼児のときには、本当に誰からも可愛がられました。小学校の高学年のとき、学校で少年たちに特有の自己主張の葛藤から、幾つかのトラブルに巻き込まれたことがありましたが、そのときもその子はけろっとしていたものです。お茶目でしたが、穏やかな性格の子は、まずはみんなに愛されていたと言えます。

  その子が、中学生になったとき、私たちの喜びのなんと大きかったことか。さあ、これからは親子三人、どんな嵐がきても力を合わせて乗り越えてゆけるぞ、と私は心底から思ったものです。中学生になった子は、いかにも逞しく見えました。だが、中学生になったばかりで、一学期も終えない七月十七日のことです。突然、その子は自ら死の方へと身を投げたのでした。それから、二十数年の歳月が経過していますが、いまもその日のことは私の脳裏に焼きついています。

  暗くなってからです。八時頃になっていたと思います。警察から、電話がかかってきたのです。恐ろしい胸騒ぎ締め付けられました。いつも午後の五時頃には帰っていた子が、その日に限って帰ってこなかったのです。六時になっても、七時になっても帰らなかった。何かあったに違いない、交通事故にあったのか、警察に届けたほうがいいのでは−−と私たちは、暗黙に語り合っていたのです。私たちは、強い不安に突き立てられながら、警察に駆けつけました。

 子は警察の暗い地下室のベッドに横たわっていました。不思議に顔の周りだけが、妙に明るかった。まるで眠っているかのような顔をしていました。かすり傷ひとつなかった。だが、その側に駆け寄ろうとして、私は不意に叫び声に襲われました。まるい明りに囲まれた子は、ベットに横たわったまま、そこにいなかったのでした。永遠の彼方へと旅立っていたのです。私はその子に飛びつきました。本能的ゆかせまいとしたのです。肩をつかみ、激しく揺り動かしました。しかし、子は音もなく遠ざかってゆくばかりでした。帰ってこようとしなかった。何度呼んでも、帰ってこなかった。両手に抱きかかえた子は、私の両手に抱かれていながら、恐ろしい速さで虚空の彼方へと遠ざかるばかりだったのです。瞬間、私は生と死の狭間に墜落してゆく自分を、はっきりと意識しました。自分の泣き声が、真っ黒い虚空に突きあがってゆくのが、はっきりと聞こえたのです。

  そして、どれほどしてからでしょう、気がつくと、私たちは子の御棺を真ん中にして、わが家の一室で川の字になっていました。いつどのようにして、警察から帰ったのか。ほとんど無意識でした。その私たちの頭上には、深い真夜中の黒闇が広がっていました。それこそ底知れない闇でした。その闇の向こう側に、母親の引き絞るような泣き声が旋回していました。まるで御棺に絡みつく風のようでした。私もまた、御棺のそばに横たわり、天井に向かってほえ続けました。虚空の彼方に遠ざかる子に付き添い、底知れない虚空に舞い上がろうとしては落下していたのでした。と、そのときです。不意に暗闇の彼方から、低い声が聞こえてくるのが意識されました。いや、意識したというより、脳底に低い声が流れたのでした。自然に生きるなら、もっとも身近な者を助けることができる――、自然に生きるなら――。私はその意識もなく口走りました。自然に生きるなら−−。そして、私はほとんど夢遊病者のように言い出したのでした。「『歎異抄』なんだー自然(じねん)に生きるなら−−じねんにいきるならだ−確かに『歎異抄』の言葉だ−」

  いまに思えば、それは私の悔恨であり、また引き止めることのできない子を、なおこの世に引きとめようとする生の慄きではなかったでしょうか。人間の業のなんという深さでありましょう。それこそ悲しみです。そして悲しみこそは、まさに深い仏縁です。『歎異抄』の声は、まさに永遠へと遠ざかってゆく子からの贈り物だったとも言えます。お葬式の間も、私の胸底には、その慄く真夜中の声が音もなく蹲っていました。お葬式が済み、誰も見えなくなってから、私はふと、『歎異抄』を探しだそうとしはじめたのでした。いまもその夏の暑い日が、はっきりと思いだされます。古ぼけた文庫本は、乱雑な本箱の片隅で、静かに私を待っていました。私はその『歎異抄』を手にしました。瞬間、白いカーテンに広がる部屋の明るみが、かすかに震えるようでした。私は床に座りました。そして、『歎異抄』を広げました。

  「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて−−往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき−」と読みました。そのとき私の意識にあったのは、ただ恐ろしいほどの悲しみだけでした。「すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」と私は読みつづけました。ただ縋るような気持ちでした。もはや言葉の意味を分かろうとする意識はほとんどなかったと思います。もし、意識されない意識があったとするなら、それは真夜中に聞いたあの声のない声だけだったはずです。それこそ涙に突き動かされて、読みつづけたのでした。「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし」と私は読みつづけました。「そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々」

 分かる知恵の闇

 思えば、それから二十八年を超える歳月が流れています。この歳月の間、私の側には、いつも『歎異抄』がありました。それはまた、亡き子がいてくれたということでもあったと言えます。あるときは、静かに手を合わせる私の側に、姿なき身となっていました。またあるときの子は、悲しみに押し潰され、何もかも投げ捨てようとする私の側にいて、私のために合掌していたのです。悲しみの涙は、亡き子の涙だったのでした。これこそが仏縁です。

 私はひたすらに読み続けました。あるいはまた、その一字一字を書き取りました。そのときの私には、もはや言葉の意味への囚われはほとんどなかったと言えます。来る日も、来る日も書き写していったのです。そして、いまは思うのです。そのときの私は、こうしてただ読むだけでよかったのだと。ただ、読み続けてゆく年月が、どれほど積み重なってからでしょう。気づいてみると、『歎異抄』の扉は、向こうから少しづつ開かれていたのでした。「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて−」とは、私がその意味に囚われているときには、決してその真実を現すことない仏の智慧だったのでした。顕すどころか、むしろ私の自分中心の知恵を、真っ向から打ち砕く働きを備えていたわけです。だから、その意味に囚われていた二十代と三十代のときには、次第にその読み解きができるようになってからも、なおその真意に頷くことができなかったわけです。

 とはいえ、それが当然だったのだと、いまは思います。実際、いつも言葉の意味に囚われ、その意味を分かろうとしていた私の自分中心の知恵とは、何であったのか。私の自分中心の知恵は、子の死の苦しみを分かろうとしなかった知恵だったのでした。いや、子を死に追い詰めていた自分だったと言う方がいい。しかも、良かれという思いからだったのです。どうしてそうであったのか。人間の自分中心の知恵には、本質的な転倒の闇が潜んでいたのでした。分かることが、逆に分からなくなる闇になってしまうのです。今にして私は、この一章が、十一章の「自見の覚悟」を照らし出している、「口伝の真信」であることに気づくのです。ここにまことに深い眼差しがあったのでした。十一章が見つめている自分中心の知恵とは何であったか。この章の書き出しは、次の通りでした。

  「一文不通のともがらの念仏もうすにおうて、『なんじは請願不思議を信じて念仏もうすか、また名号不思議を信じるか』と、いいおどろかして、ふたつの不思議の仔細をも分明にいいひらかずして、ひとのこころをまどわすこと、この条、かえすがえすもこころにとどめて、おもいわくべきことなり。―」

 「一文不通」とは何であるのか。文字一字知らない人ということです。ここに開示されているのは、まさに人間の言葉の知恵の闇そのものではないでしょうか。ある物知りが、文字一字もしらない人が念仏しているのを見て、おまえは請願不思議を信じるのか、それとも名号不思議を信じるか、と問い詰めているわけです。だが、この物知りは、果たして何を知っているのでありましょう。この物知りが知っているのは、文字の上の知識にほかなりません。それは果たして、あるがままのものそのもの、ことそのことでしょうか。言葉の知恵にほかならないのです。

  にもかかわらず、この物知りは、文字一字知らない人の前にでると、自分の方が何かをよく知っていると思っているわけです。この物知りのあり様こそは、まさしく人間の知恵の闇の現れそのものです。実際、私たちの自分中心の知恵とは、なんでありましょう。ここに改めて、お釈迦さまの出家の動機にかかわる言葉が思い起こされます。お釈迦さまは、その出家の動機を次のように語られていたのでした。 「比丘たちよ−−。愚かな者は、自ら老いる身であり、いまだ老いを免れことを知らないのに、他人の老いたるを見れば、おのれのことは忘れて、厭い嫌う。考えみると、私もまた老いる身である。老いることを免れることはできない。それなのに、他人の老い衰えたさまをみて厭い嫌うというのは、わたしとしてふさわしいことではない。比丘たちよ、そのように考えたとき、私の青春の驕逸葉ことごとく断たれてしまった。」

 人間とは、他人が見えているときは、自分が見えなくなるのでした。いま一歩踏み込んでいうなら、人間の知恵は、言葉を通して何かが分かる知恵なのでした。それはしかし、言葉を通しての知恵である限り、あるがままが、あるがままには見えなくなる闇とともにあったわけです。お釈迦さまは、この自分中心の知恵こそが、人間を人間にするとともに、その人生を生・老・病・死の四苦にしてしまう無明にほかならないことを見抜かれたのです。これが「四門出遊」の比喩とともに語られているお釈迦さまの出家の動機なのでした。ぼんやりと眺めると、どうしてこれがお釈迦さまの出家の動機であり、仏教の始まりとなったのかとも思えましょう。だが、このお釈迦さまの眼差しこそは、まさに人間にとって本源的だったのです。人類史的な明かりだった。確かに人間の知恵とは、まさに言葉とともにあるがゆえに、あるがままがあるがままには見えなくなる知恵だったと言っていいのです。人間の歴史が、時ともにいよいよ末法を深めることになるのも、人間の知恵に潜むこの深い無明によるものでありましょう。

  『歎異抄』の第一章は、その人間中心の知恵の闇を見つめて、仏さまの真実の智慧を開示していたのでした。それこそが「口伝の真信」です。それにしても、亡き子がそのいのちの真実をもって問いかけてくるまで、自らの知恵の闇に気づこうとしなかった私の何という業の深さでありましょう。いまにして「罪悪深重・煩悩熾盛」との指摘の眼差しが、深く身に凍みてくるのが感じられます。人間のあらゆる罪の根っこには、言葉の知恵ととともにある人間の自分中心の知恵が横たわっていたのでした。その知恵は、まずいのちを私物化して、いのちを自分のいのちのように思わせてゆきます。それはまた、子や財についても同じことでありましょう。何もかも私物化してゆくのです。それこそ罪悪深重です。しかも、その転倒した知恵はまた、人間を身の煩いとこころの悩みの巣窟にしてしまうのでした。お釈迦さまの今ひとつの言葉が、ここに思い起こされます。お釈迦さまは、人間の私物化の闇について、述べられていたのでした。

  「『わたしには子がある。わたしには財があると』と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。」(「ブッダの真理の言葉・感興のことば」)

  まさしく私たちは、すばらしい知恵を備えている一方で、「罪悪深重・煩悩熾盛」と指摘されるほかない存在だったのです。『歎異抄』は、その私たちに寄せられた仏さまの涙の書だと言えます。それこそ仏の慈悲です。見渡せば、世界には、人間の分かる知恵の闇が満ちみちています。二十一世紀は、まことに重い百年となりましょう。人間の世界は深く生と死が引き裂かれています。人間と地球が引き裂かれています。その根っこが「自見の覚悟」だったわけです。さて第一章に多くの言葉を当てることになりました。しかし、前序と第一章は、『歎異抄』全体の扉です。ここにやっとその扉を開くことができたような気が致します。これでもって第二章に進むことにしたいと思います。締めくくりに一章の意訳をおいて、第二章にすすむことに致しましょう。

  第一章の意訳
阿弥陀さまの万人を助けんと誓われた不思議な智慧のはらきにお助けいただき、真実のいのちの世界に生きんと信じて、念仏申さんと思い立つこころがおこるとき、私たちはすでにして深い光のいのちの御手に救われているのであります。阿弥陀さまの根本の願いは、老人と若者、また善人と悪人を分けへだてされることはありません。私たちに求められているのは、ただ信じることだけです。私たちの心身には深く重い罪悪を満ちわたり、私たちはまた、いつも身のわずらいとこころの悩みに苦しんでいるのでした。その私たちの救いこそが、阿弥陀さまの願いの根本であります。そうであればその真実の願いを信じる人には、もはや他の善をつむ必要はありません。阿弥陀さまの念仏の光に勝る善はないのです。また悪をも恐れることはありません。阿弥陀さまの深い願いを妨げることのできる悪はないからです。これがお言葉でした。