『時代によみがえる歎異抄』  高 史明

歎異抄 第六章

一 専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいうこと、不可説なり。如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。かえすがえすもあるべからざることなり。自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々

専修念仏 本願を信じてひとすじに念仏を称えること。
相論 言い争い。お互いに論じ合うこと。
荒涼 無遠慮な言い分。とんでもない。
不可説 言語道断。
自然のことわり おのずから成り立つ道理。  

親鸞の悲しみ  

 さて、阿弥陀の智慧と私たちの人間中心の知恵のかかわりと違いを見つめつつ、前回は念仏の真実を、広いいのちの世界において考えたのでした。この第六章では、いよいよその念仏の真実をともに生きるお仲間の生き様が見つめられることになります。そして、真実の自然といのちが開かれてくるのです。まずその冒頭を開いて見ましょう。

  「専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずそうろう」

  『歎異抄』は、唯円の編纂であるというのが、今日の定説です。恐らくこの言葉もまた、唯円とそのお仲間たちが、親鸞に直接聞かされたものではないでしょうか。親鸞が京都に去った後、関東では親鸞の言葉をめぐって、さまざまな論議が横行していたのでした。唯円はそのとき、どんな顔をしていたのでありましょう。日焼けした唯円の真剣な顔が想像されます。そしてそのとき、親鸞はどんなお顔で、この言葉を語られたのでありましょうか。私はときどきそんなことも想像しながら、『歎異抄』を開くことがあります。

 親鸞聖人は現存の肖像画によると、きわめて厳しい顔立ちの人でした。晩年の柔和な顔にも、人間の闇を見つめ、その根っこを刺し貫く人の静かな厳しさが感じられます。関東の弟子たちを迎えたときも、同じ静かなお顔をしておられたものと思われます。ただ、そのときはいつもの澄み切った眼差しの奥に、静かさとともに微かな悲しみの陰も漂っていたのではなかったでしょうか。

  「専修念仏のともがら」とは、「ただ念仏のみぞまこと」と信じて、ともに荒野の世界を生きる念仏の同朋です。親鸞は、その念仏の道を生き抜いたのでした。その人生が、いかに厳しいものであったかは、すでにいろいろと語っています。親鸞は流罪が解かれた後、辺境の常陸に赴いたのでした。すると、その親鸞の身辺には、一人また一人と、念仏一つを真実と生きる仲間が増えたのです。関東の念仏のお仲間は、名の分かっている者だけでも、七十名を超えていると言われています。

 「ただ念仏のみぞまこと」の真実は、生・老・病・死の四苦に翻弄される人間にとって、まさに金剛石のように確かな生の真実だったわけです。そのお仲間の生き様を目にするとき、親鸞の喜びは、どんなに大きかったことでしょう。法然の教えに従って、「ただ念仏のみぞまこと」の一本道を、ひたすらに歩みつづけた親鸞。その親鸞にとっては、身辺に同じ道をゆく人を見るほど喜ばしいことはなかったに違いないのです。

 だが、その一方で親鸞の身辺にはまた、その頃から真実の喜びを根こそぎに覆すような人間の闇の深さも、ひたひたと迫っていたのでした。「専修念仏」の仲間とは、人間の分かる知恵の闇のどん底に落ちて、「ただ念仏のみぞまこと」の真実に目覚めた人たちのことでした。ところが、その真実の智慧に目覚めたはずの人たちの間において、またしても「わが弟子、ひとの弟子、という相論」が起こったわけです。人間の業の何という深さでありましょう。

  「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」という強い口調には、静かな怒りすら感じられます。それこそ親鸞の悲しみです。弟子というからには、師匠があるのでしょう。ところで、人間世界に弟子と師匠の関係が作り出されるのは、何ゆえでありましょうか。分かる知恵が積み上げてゆく知識をおいて、他に弟子と師匠を生み出すものがありましょうか。分かる知恵の闇に目覚めたはずの人々の間において、またしても分かる知恵の闇が生じているのです。

  親鸞聖人はしかし、その悲しみを押さえて、静かに言葉をつづけたわけです。「そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり」

  「荒涼」とは、荒れ果てた景色などを指す言葉です。この一言には、深い寂しさが漂っています。親鸞はそのとき、寂しさとともに深い悲しみを覚えたのではなかったでしょうか。念仏とは、阿弥陀の智慧でした。人間は阿弥陀の催促があって初めて、念仏を称えるようになってくると言っていいのです。事実、私の場合は、子の死に導かれて、初めて念仏のほうへと人生の姿勢を向きかえることになったのでした。この事実は、時を超えて変わらない人間と阿弥陀の関係だと思います。

 親鸞聖人の時代の人も、同じように阿弥陀の催促を聞いたのではなかったでしょうか。にもかかわらず、その念仏している人たちの間で、わが弟子ひとの弟子という囲い込み勢力争いが起きているわけです。人間はそれこそ阿弥陀の「御もよおしにあずかって」念仏を称えるようになったにもかかわらず、いつしかその念仏を、自分中心にいのちを私物化するのと同様に自分の知識に代えてしまうのです。

蓮位房を窘める

 思えば、親鸞が比叡山を下りて、法然のもとに心身を投じたのも、言わば学問となった聖道と、浄土のかわりめに関わっていたのでした。万人を平等に救うはずの仏教が、長い歳月の間に膨大な量の学問となって、不平等を生み出す原因になっていたわけです。ところが、比叡山を下りても、人間の知恵の闇は、至るところで親鸞を待ち構えていたのです。

 例えば、『口伝鈔』にも、同じ問題が記録されていました。ある日、常陸の国新堤の信楽坊が、親鸞の教えに反対して、自分の国に帰ることになったのでした。そのとき蓮位房が、親鸞に言うのです。"信楽房は弟子であることを止めて、国に帰るのですから、預けている本尊は取り上げるべきではないでしょうか"と。すると、親鸞はきっぱりと答えたのでした。

 「本尊・聖教をとりかえすこと、はなはだ、しかるべからざることなり。そのゆえは、親鸞は弟子一人ももたず、なにごとをおしえて弟子というべきぞや。みな如来の御弟子なれば、みなともに同行なり。念仏往生の信心をうることは、釈迦・弥陀二尊の御方便として発起すと、みえたれば、まったく親鸞がさずけたるにあらず。―」と。まさしく人間の知恵の悲しみは、親鸞の行くところ、至る所に立ち現れているわけです。

 いや、その人間存在の闇は親鸞の前に、外から立ち塞がるだけではなかったのでした。親鸞自身の心底からも、その闇が立ち塞がってくるのです。一つの大切な出来事が、恵心尼公によって記録されていました。恵心尼は、親鸞のもっとも近い念仏の同行者であり、まさに苦楽を共にしてきた妻です。その恵心尼が、五十九歳の親鸞を記録しているのです。

  「寛喜三年四月十四日午の時ばかりより」という日付があります。親鸞はこの日、高熱にうなされて臥せることになったのでした。その四日目のことです。ふとわれに返ると、苦しそうにもらしたというのです。「今はさてあらん」と。それから、臥せってからの出来事を、恵心尼に語られたと言うのです。「臥して二日と申す日より、『大経』を読む事、ひまもなし。たまたま目をふさげば、経の文字の一字も残らず、きららかに、つぶさに見ゆる也」(『恵心尼消息』)と。『大経』とは『大無量寿経』のことです。その文字が、一字残らずきららかに見えてきたとは、なんということでしょう。不思議といえば不思議です。

 だが、この体験こそは、親鸞にとってまさに、根源的だったに違いないと思います。ある意味では、法然との出会いに覚えた衝撃より、もっと深い宗教体験だったのではないでしょうか。親鸞が法然のもとに下ったのは、学問となった仏教に人間の深い闇を見たからでした。それ故にまた、「ただ念仏のみぞまこと」という法然の言葉に全身を投げ込むことができたのです。ところが、高熱に襲われると、またしても親鸞の脳裏に浮かび出るのは、『大経』の文字だったのです。

 そして、そのとき親鸞聖人は恵信尼に、言わば人間の理性的意識の下の、さらに深い下層での出来事を語りながら、十七年か十八年前にもあった同じ体験を話したと言います。越後から常陸に向かう道中のことです。親鸞は飢饉に苦しむ人々を目の当たりにしたのでした。道中の道の傍らに餓死者の死体もあったと言います。そこで『三部経』を称えて、人々の幸せを祈念しようと思ったわけです。だが、その途中でわれに返り、「名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするやと、思いかえして」経を読むことを止めたことがあったと言うのです。にもかかわらず、またしても「念仏の信心より外には、何事か心にかかるべき」ということが起こったわけです。 「罪悪深重・煩悩熾盛」とは、親鸞の言葉でした。親鸞は高熱に魘されることになったとき、まさにこの人間存在の根っこをくぐったのではないでしょうか。

 恵信尼は、親鸞聖人のこのときの言葉の結びを、次のように記録していました。「これは何事ぞ、自信教人信、難中転更難とて、身ずから信じ、人をおしえて信ぜしむる事、まことの仏恩を報いたてまつるものと信じながら、名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするやと、思いかえして、読まざりしことの、さればなおも少し残るところのありけるや。人の執心、自力の心は、よくよく思慮あるべしと思いなして後は、経読むことは止りぬ。―」(前掲書)

 深い自己凝視です。しかも、親鸞のこの体験は、法然のもとに下って三十年もの時を経てのことだったわけです。聖道・浄土のかわりめとは言うものの、その「かわりめ」に渦巻く人間存在の明暗は、まさに計り知れないと言うほかありません。親鸞はこのとき、人類史的な人知の闇をつき抜けて、その深い自己凝視のただ中に立つ阿弥陀の光を見たのではないでしょうか。

 思えば、親鸞聖人が『教行信証』に全力を傾けることになったのは、それからのことだったのでした。法然に「ただ念仏のみぞまこと」と聞かされ、その真実を深く確信して歩みつづけながらも、なおも長い間、論理のレベルに止まっていた確信が、三十年の念仏生活と、高熱とともにおこった深い宗教体験を通して、向こうから、自ずと湧き上がってくる真実の信念に変ったのでありましょう。『教行信証』には、かつては何処までも親鸞に付き纏っていた人間中心の知恵の闇が、もはや陰も止めていないと言えます。すべての闇が、闇のままで光となっているのです。

  親鸞聖人は『教行信証』の「信巻」において、阿弥陀の智慧の真実を深く解き明かし尽くした後に、次の言葉を表白していました。「誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばす、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と」 まことに根源的な慙愧です。この慙愧は、あらゆる論理の言葉を超えていると言えましょう。

 この横に明恵の『摧邪輪』を置いて見たらどうでしょう。この慙愧の表白は、まさに法然の『選択念仏集』を批判した明恵の立脚地を、ありありと映し出す鏡ともなっていると言えないでしょうか。明恵は、いわば厳しい菩提心の追求者でした。真実の信心の追求者です。しかし、親鸞はその真実の信心を論理として説き尽くしていった究極において、さらに深い慙愧の世界へと導くのです。ここに人間の知恵を超えた阿弥陀の智慧の真実があります。親鸞はその真実に全身を投げ出すことをもって、阿弥陀の信心の証としたのでした。その厳しい姿は、まさに阿弥陀の光に包みとられていると言えます。親鸞はその阿弥陀の光を通して、念仏のお仲間の争いを見つめるのです。「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」と。唯円たちの深く頷く顔が想像されるところです。

 ところで、この六章はまた、これまでの各章と同じく一六章に対応しているのでした。ここでその一六章を開いて見たいと思います。一六章の冒頭は、次の言葉でした。

「信心の行者、自然に、はらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあいて口論をもしては、かならず回心すべしということ、この条、断悪修善のここちか。一向専修のひとにおいては、回心ということ、ただひとたびあるべし。―」

  人間の世界には、わが弟子ひとの弟子に類する、さまざまなトラブルが渦巻いているのでした。腹をたてることもあれば、思わず知らず悪を犯してしまうこともあります。また、同じお仲間の間にあっても、口論が避けられないものです。人間の世界では、国際関係から、会社や学校などでも、妬みそねみ、陰口・悪口が氾濫しているわけです。そこである善人が言うのです。そんなときは人倫に反しているわけですから、「かならず回心すべし」と。この場合の「回心」とは、いわば反省ということでありましょう。そして、その反省は、決して悪いことではありません。

  しかし、「回心ということ、ただひとたびあるべし」という一度きりの回心があったのでした。人間の反省が行き着くところは何処でありましょう。反省は何処までいっても、理性の枠内にある反省を超えることはできません。人間が末法を深めることになっているのは、その理性に闇が潜んでいたからではなかったでしょうか。人間は、その理性によって深く自然に迫りながら、逆に真実の自然を見失うことになっているのでした。

  ここに原爆の父とも呼ばれたオッペンハイマーの悲劇も思い起こされます。彼は人類初の核実験に成功とき、"物理学者たちは罪を知ってしまった。―それはもう、失うことのできない知識である"と言う嘆きをもらしたと言います。そして、原爆がさらに、その千倍もの威力をもつ核融合爆弾の製造計画へと進められとき、それを拒否したのでした。すると、自由の国アメリカが、それまでの彼への賞賛を一転させて、いっきに弾劾へと走ったと言います。人間の理性に潜む闇は、まことに深いと言うほかありません。それがまた、人と人の争いや、わが弟子、ひとの弟子の争いの元ともなるのでありましょう。

  「断悪修善のここち」では、理性に潜む闇を超えることはできないのです。「回心」とは、まさにいのちをも私物化してゆく理性の根本的方向転換に他ならないと言えます。繰り返しですが、人間は人間となってゆく理性によって、自らの根っこを見失い、さらに真実の自然を見失っているのです。そうであれば、人間の根本課題は、真実のいのちの回復にあると言えましょう。阿弥陀に催促された回心が、しっかりと見つめられていいのです。一六章は、人間の理性の限界を見極めつつ、真実の回心から、いかなる世界が開かれてくるかを明示することになります。いまその言葉を、ここに上げて見ましょう。

  「―すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。しかれば念仏ももうされそうろう。これ自然なり。わがはからわざるを、自然ともうすなり。これすなわち他力にてまします。しかるを、自然ということの別にあるように、われものしりがおにいうひとのそうろうよし、うけたまわる。あさましくそうろうべきなり」

  ところで、親鸞聖人の教えをもって、日本史に消すことのできない大地を開いたのは、蓮如上人でした。すでに触れている通りです。思えば、その蓮如がその阿弥陀の智慧を拠り所として、人と人を結びつけてゆくときの要としたのは、この『歎異抄』の六章にある「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」という思想だったのでした。その言葉の部分をここに上げて見ましょう。

 「ある人いわく、当流のこころは、門徒をばかならずわが弟子とこころえおくべく候やらん、如来・聖人の御弟子ともうすべく候やらん。その分別を存知せず候う。―御ねんごろに承りたく候う。答えていわく、―故聖人のおおせには、『親鸞は弟子一人も持たず』とこそ、おおせられ候いつれ。『そのゆえは、如来の教法を、十方衆生にとききかしむるときは、ただ如来の代官をもうしつるばかりなり。さらに親鸞めずらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもおしえきかしむるばかりなり。そのほかは、なにをおしえて弟子といわんぞ』されば、とも同行なるべきものなり。これによりて、聖人は御同朋・御同行とこそかしづきておおせられけり。―」=「御文」

 人間は、繰り返して言うことですが、人間中心の知恵を生きているのでした。その限り、弟子と師匠の関係は、きわめて大切な関係です。しかし、人間はまた、自らの知恵だけをたよるとき、もっとも大切な師匠と弟子の関係を、自ら踏みにじってゆくわけです。どこの社会にも広く見られることでありましょう。もし、弟子と師匠の関係が、真実の人間関係となることを求めるのなら、まず両者が共に如来の智慧の大地に立っていいのです。平等の大地があって、初めて人間は自然に尊敬のこころをも持つのでありましょう。

  この六章に展開されている眼差しは、人間の世界全体に広く当てはまると言えます。弟子と師匠にかかわる問題は、親と子の関係にも通底しているのです。あるいは、もっと広く政治や会社の人間関係にも通用するはずです。人間とは、手と手、額と額を寄せ合う世界内存在でした。その世界には、隅々にまで人知が浸透しています。そうであれば、その人間と人間の関係を、真に平等で親密なものにしようと願うのなら、まずは人間中心の知恵が、たえず反省され、見直されていいわけです。

 言葉を代えて言うなら、人間中心の知恵とは、たえず選別するように働きますので、人間は、その知恵とともに生きることが避けられない以上、その知恵が弱者と強者、ボスと子分などを作り出す不平等の源泉であることを見極めて、真に平等な根っこが求められていいのです。念仏の智慧がなくてはならないのです。それはまた、人間がほとんど本能的に求めているものではないでしょうか。その人間平等の大地こそが、「同朋」です。

 「同朋」とは、念仏に結ばれ、地縁・血縁を超えた人と人の関係を意味しています。二十世紀が、夥しい血の流れた戦争の世紀であったことを考えるとき、この「同朋」という言葉で見つめられた人間平等の大地は、まことに根本的だと思います。世界中が、この同朋の大地に結ばれて欲しいと深く願われるところです。それこそ自分中心の知恵が、念仏とともに転換させられてゆくとき、人間の前途に開けてくる真実の自然との出会いが実現されていいのです。 「自然のことわり」の一言には、深いいのちの響きが行き渡っています。この「自然のことわり」が甦ってくるかどうか、そこに新しい世紀の未来がかかっていると思うのですが、どうでありましょう。現代世界の混迷深い先進国の教育の現場にも、この「自然のことわり」が真に息吹いて欲しいものです。

六章の意訳

 念仏の真実一つを生きるともがらの間にあって、わが弟子ひとの弟子という言い争いがあるということ、決してあってはならないことです。親鸞は弟子ひとりももっていません。なぜかと言えば、わたしの計らいによって、ひとが念仏称えるようになったのであれば、わたしの弟子だとも言えましょうが、そうではないのです。ひとえに阿弥陀のご催促によって念仏を称えるようになっているひとを、わたしの弟子というとは、きわめつけの思い上がりです。人はつくべき縁あれば伴い、はなれるべき縁あれば離れるのでした。その縁ということを忘れて、師匠にそむいて、他の人につられて念仏すれば、往生するはずがないなどということ、決して口にしてはなりません。如来より賜るところの信心を、わがものがおして、とりあげようというのでありましょうか。どう考えても、決してあってはならないことです。真に自然のままのことわりに適っているなら、きっと仏の恩をも知り、また師の恩をも知ることになるはずなのです。これがお言葉でした。