「念仏往生」の大地に立つ 2005.4.2  高 史明

第3章

  今日の世界の不安現象には、実に多様な原因が折り重なっていると考えられます。しかし、いまその根っこを、今日の状況とのかかわりで一つだけ上げてみますなら、やはり二〇〇一年の九月十一日にアメリカに突発した同時多発テロと、それ以降からの状況が、重い不安の影をなしていると言っていいのではないでしょうか。この状況はまた、テロの惨事に対するアメリカのブッシュ大統領の声明によって、いかにも荒々しい激流になったのでした。

 思えば、あの恐ろしいテロ事件の時、ニューヨークの崩壊したビルの廃墟に立たれたアメリカのブッシュ大統領は、世界中に向かって声明したのでした。その声明には三つの柱がありました。第一は「文明と野蛮の闘いが始まった」と言うことです。そして大統領は、その戦いの内容を「善と悪の戦い」と規定して、声明の第二の柱としていました。言うなれば、ブッシュ氏は、文明の代表者として、テロを行った人間たちを叩きのめすということでありましょう。ではどのように叩きのめすのか。大統領の声明の第三の柱は、「新しい戦争」という言葉でした。今日のいかにも険しい世界状況は、確かにテロとそれに対応して発信された大統領のこの声明から始まっていると考えてよいと思います。ブッシュ氏は、世界の大国アメリカの大統領であります。その氏の「新しい戦争」声明は、世界に新しい状況を作り出すに十分な力を持っていたわけであります。

 アルカイダのアフガン爆撃が開始されました。世界中のテレビにその無機質な爆撃の様子が放映されたものであります。そして、二〇〇三年にはイラク戦争が発動されました。そのイラク戦争の大義名分は、イラクのフセインは大量破壊兵器と科学兵器を隠し持っている、これを放置しておくと、世界の平和に異常な危機が発生するということでした。それがアメリカの戦争の大義だった。アメリカは世界一の大国であります。この大国が全力をあげて、世界一優秀な兵器を持ってイラクに襲いかかったのであります。戦争の結末は初めから明らかでした。フセイン政権はあっという間に壊滅しました。三月に始まった戦争が、五月には早くもアメリカのブッシュ大統領の勝利宣言となっています。しかし、その結果、何が明らかになっていましょう。

 イラクには大量破壊兵器は何もなかったのでした。それを作る力も準備もなかった。そして細菌兵器なるものもなかった。すべてがアメリカ情報局のでっちあげだったということが明らかになったのであります。虚構から、現実の戦争が起きてしまったのであります。何と言う無明でありましよう。いや、戦争とは、いつも人間の根っこの無明の顕在化ではないでしょうか。虚構から開始されたイラク戦争は、ブッシュ大統領の勝利宣言から、実はいよいよ本格的になったのでした。米兵の死者は、それから後うなぎのぼりに大きくなり、いまは一五〇〇名を超えているはずです。一方、イラク人の死者はその百倍以上、十五万人以上が亡くなっていると報道されていました。

 アメリカのある放送局が、若い米兵の声を報道していたものでした。「自分たちは、イラクへ大量破壊兵器を潰滅させるために派遣されたはずだったのに、現地へ行って気が付いてみたら、自分たちがイラク人へのテロリストであった。自分たちの方がイラクへテロに行っている」と。。これは私たちに何を告げる言葉でありましょう。文明とは一体なんであったのか。人間を中心にした善とは何であったのか。無量の仏様が、今もう一度、私たちにその人間の根っこの闇を問われているのであります。私たちは、このお御堂で、無量の仏様を前にして、戦争をもう一度、原点に立って見たほうがいいのであります。

 例えば、その一例として、最近ドイツと旧ソ連=いまのロシアが共同でテレビの記録映画を作っていました。第二次世界大戦のスターリングランドの攻防戦の記録であります。ヒットラードイツの精鋭部隊三十万がスターリングランドに迫った。しかし、いつまでたっても陥落しない。そして冬が来た。両方がにらみ合ったまま厳寒期を迎えたわけです。何が起きたか。食料が尽きました。両方が極限的な飢えに迫られ、地獄が起きたのでした。生き残った人が証言していました。まず馬が食べられた。次は犬―。それから猫が食べられた。そして、なお食料がなかったのでした。最後は人間が食べられた。

 ドイツの先鋭部隊、ヒトラーの最も信頼していた部隊三十万人のうち二十五万人がそこで死んだと言います。五万人が捕虜になってシベリア送りになる。その一方、当時のソ連ではそのスターリングランドの攻防戦だけで、五十万人が犠牲になったと言われていました。一つの都市の攻防で、直接に両者から八十五万人からの人が犠牲になるとは、何という地獄でございましょう。

 しかし、この地獄は、ヨーロッパにあっただけではありません。日本の開戦から始まったアジアの戦争でも起きていたのであります。南方の密林の中を逃げ惑う日本の兵士の中には、やはり人を食って生き延びてきたと言うことが言われておりました。ある詩人が書いていた。戦後、沈黙してきた恐怖を書いた人がいたわけです。誰にも言わなくて、心の中に秘めてきた恐ろしい罪。夜中に寝ていると、自分が食べた人間の顔が、真っ暗な天井の暗闇から降りてくると言う。解体しているとき、たまたまその人の顔を見ていたわけです。

 その時にその人はなんと言うか。
なんまんだぶつ!であります。南無阿弥陀仏でございます。助けてください!。南無阿弥陀仏でございます。戦争とは、まさに人間を根っこの闇に突き落とすのであります。

 もちろん、そのような厳しい状況に落ちても、人によってはなお、同じ人間を食べるくらいなら、と自殺する人もいましょう。そして自殺した人も少なくなかったものと思われます。しかも、最後の決定は自分が下すという点では、自殺するほうが今日的な倫理観においても人間的なようにも見えます。いや、確かに人間的です。自分を中心の生きる者が、その最後もまた自分で決着がつけるわけです。しかも、自殺できる人は、地獄には落ちないで済みます。あるいは極楽に行けるかも知れません。 

 しかし、その極楽には、阿弥陀様がおられましょうか。仏法の教えを聞くことができましょうか。いや、自殺したら、人間存在の無明は解決するのでありましょうか。むしろ、自分一人の決着をつけることによって、人間の無明をより深くすることはないでしょうか。

 思えば、その反対に食べて生き延びる人もいるのでした。恐ろしい罪です。無間地獄に落ちることになるかも知れません。真夜中に叫び声を上げる人は、地獄を生きる人でありましょう。しかし、自分の罪業の恐ろしさから、叫び声を上げてしまう人の方が、むしろ人間存在の罪業の深さに真に慄く人ではないでしょうか。そこからひょっとして、阿弥陀様の方へと、歩みでる道を教えられるのではないか。

 第二次世界大戦では、国家間の不正と正義は明らかにされましたが、なおこの極限の地獄を生きる人間の闇は見届けられないままになっているのではないでしょうか。理性は問われましたが、その理性の根っこの裏まで問われることはなかった。人間の裁判で決着がつけられた。それは何か。それで良かったのか。無量の仏様が、いま私たちに問われているものと思われます。霊を祭ることがあっても、仏の声を生きていないのではないか。文明とは何かであります。ここに私は、思わず知らず自分が食べた人間の顔に迫られて、「なんまんだぶ!」と叫んでしまった人の叫び声を思うのであります。