「念仏往生」の大地に立つ 2005.4.2  高 史明

第5章

 話が飛躍するようでありますが、私はここに「文明」の根っこを改めて考えて見たいと思うことであります。先ほど考えましたチャンギー刑務所で死刑となった木村久夫さんは、日本の戦争と敗戦に思いをめぐらせながら、「満州事変以来の軍部の行動」ということを書き残していました。胸の痛む言葉であります。一方、今日の日本には、第二次世界大戦を考える言葉として、「十五年戦争」という視点が広く流布しています。それとともに明治の日本は良かったが、昭和の軍部がよくなかったとも言われているようであります。しかし、「十五年戦争」とはまた、どうして起きたのでありましょう。

 第二次世界大戦の黒闇を、真に見ようとするなら、「十五年戦争」では、なお「文明」の闇には届かないのであります。本当は明治維新の文明開化の文明ということまでが、深く見詰められていいのであります。考えて見ますと、今日のブッシュ大統領の「文明と野蛮」「善と悪」の二項対立の絶対化とは、まさしく文明の根っこの闇を問うことを通して初めて、その明暗が明らかになるのではないか。文明が大きな声で世界中を席巻することになったことから、文明の輝きとともに本当の人間の幸せが見えなくなっているのではないか。

 思えば、日本に文明が上陸してきたのは、幕末から明治にかけての時でした。その明治時代から今日に通底して、もっともよく知られている人物に福沢諭吉先生がいます。彼は一万円札の顔になっていますので、まさに日本の顔であるとも言えましょう。彼は幕末から明治にかけて、世界中を見聞して歩いた代表的な知識人でした。『世界国尽』という表題の文章もあります。彼こそは、まさにその時代の文明観を披瀝するに相応しい人であったと言えます。ところで、その彼の文明観はどのようなものであったか。明治から今日までをリードしている福沢諭吉の視点を通して、「文明」とは果たして完全な「善」であるかとどうか、いや「善」とはそもそも何かを考えて見たいと思います。彼は明治維新の前後に確か二度にわたって、世界中を見てきたのでした。その見聞録が、『世界国尽』にまとめられていて、そこに彼の文明観がよく現れています。彼はそこで言うのであります。

 「文明開化というは、礼儀を重んじ正理を貴び、人情穏やかにして風俗やさしくー」と。つまり、鉱工業と農業、そして学問の盛んなアメリカやイギリス、フランスやオランダなどの国々を文明国と見るわけであります。そして、中国やトルコなどを、未開・半開と位置づけていました。「文字や学問があっても、嫉妬心が強く、他国の人を忌み嫌い婦女子を軽んじ、弱気を苦しめる風があるというわけであります。一方、彼が「蛮野」と見ていたのは北アメリカ土着の人たちでした。彼によればその人々は「文字あれどもこれを読み書きするものは甚だ稀なりーー道具仕掛けの工夫を知らず」というわけです。そして、日本についての彼の位置づけは、半開ということでした。文明と野蛮の間ということでありましょう。そして、『学問のすすめ』を明らかにしたわけです。

 『世界国尽』は明治維新から一年後の一八六九年ですが、『学問のすすめ』は一八七二年であります。その間、わずか三年ほどであります。そこに次の言葉があります。「今世界中を見渡すに、文明開化とて文字も武備も盛んにして富強なる国あり、或いは蛮野未開とて文武ともに不行き届きにして貧弱なる国あり。―」そして、また言います。「今、自国の富強なる勢いをもって貧弱なる国へ無理を加えんとするは、いわゆる力士が腕の力をもって病人の腕を握り折るに異ならずー」と。この言葉の意味するところは、説明の要もないでありましょう。彼は半開国の日本が、文明国に強権をもって圧し拉がれることを恐れたのでした。その思いが、いっきに『学問のすすめ』になったのでありましょう。

 福沢諭吉の状況認識は、正確だと思います。また、その『学問のすすめ』もまた、天下の名著であります。その冒頭は次の言葉に始まっていました。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」恐らくこの言葉の源流は、アメリカの独立精神ではなかったでしょうか。長い中世の時代、人間は決して人間であることでもって平等ではなかったわけです。この精神は、新しい人間観の現れであります。しかし、現実の世の中には、文明と野蛮があるように「賢人と愚人との別」があったのでした。彼はその原因を考えます。

 そして、彼の思い至ったのは、「学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり」と言うことであります。そこで『学問のすすめ』になるわけですが、そこに彼の新しい見識がありました。彼が文明に学んだのは、「古文を読み、和歌を楽しみー」という学びではなく、「実学」という言葉で押さえられた「科学」であります。しかも、彼はその学びを「身も独立し家も独立し天下国家も独立すべきなり」という切迫した行程と見ていたのでした。まさにそれなくしては、日本の独立の危機があると見たのでありましょう。「身の独立と国家の独立」という。まさに近代思想の原点がここに明らかにされています。日本の多くの識者が、福沢諭吉を高く評価するのも、この思想の近代性を評価するからでありましょう。しかし、その近代思想こそは、また人間中心思想ではなかったでしょうか。その人間尊重、その理性中心に始まる「文明」こそが、またブッシュ大統領のイラク戦争の原点ではなかったのか。

 人間の平等と国家の平等を説いていた彼は、その視点を貫徹したのでありましょうか。そうです、世に彼の変質を指摘する人もありますが、私は彼がその理性を貫徹させたのだと思っています。すると、何処に出ていたか。『学問のすすめ』から、ほぼ十三年を経てのことであります。彼は、アジアと朝鮮の社会状況の激変に対応してのことでありましょうが、『脱亜論』を発表するのであります。

 「我日本の国土は亜細亜の東邊に在りと雖ども、其国民の精神は既に亜細亜の固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るに(ここ)●●に不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云い、一を朝鮮と云う。(中略)左れば、今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を待って共に亜細亜を興すの猶予あるべらず、寧ろその伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従って処分すべきのみ」

 「西洋の文明国と進退を共にしー」とは、まことに象徴的であります。しかも、「処分すべきのみ」と言う。思い返せば、日清戦争が起きたのは、それから十年ほど後のことではなかったでしょうか。年表によると、一八九四年の八月一日に宣戦布告が行われています。ところで、その三日前「時事新報」の論説だったと思いますが、次のように主張しているのであります。「戦争の事実は日清両国の間におこりたり足りと雖も、其根源を尋ぬれば文明開化の進歩を謀るものと其進歩を妨げんとするものとの戦いにしてー」と。

 そして、ついには「日本臣民の覚悟」の発表になったのでした。思えば「教育勅語」の発布は、一八九〇年のことでした。それを考えますなら、この「臣民」という表現は、まさしく「勅語」の思想の現れでありましょう。身の独立と国家の独立を主張していた福沢諭吉が、このときはもう国家あっての人間という思想の表現者になっていたのであります。それゆえでありましょう、彼はその「覚悟」において述べていました。「老少の別なく切死して人の種の尽きるまでも戦ふ」と。あるいは言うのであります。「日本臣民は事の終局に至るまで謹んで政府の政略を非難する可らず。―世界に対して肩身を広くするの愉快さへあれば、内に如何なる不平不条理あるも之を論ずに遑あらず」と。

 第二次世界大戦では、「一億玉砕」が叫ばれたものでした。恥ずかしいことですが、その頃、少年であった私もその戦争で死ぬことを自分の生甲斐にしていたものであります。朝鮮人のBC級戦犯者の中には、このような考えを持っていたものが少なくなかったのではないいか。また、彼の思想には、死して虜囚の辱めをうけず、という考え方の先駆的な指針もあったのでした。

 何という文明でありましょう。これが福沢先生の『脱亜論』から流れ出てきた文明開化の流れだったのであります。仏様の木村久夫さんが生前に残した言葉に「満州事変以来の軍部」ということがありましたが、その戦争はまさにこの日清戦争に発端があったのでした。そこまで遡って考えなければ、なぜ第二次世界大戦に突入することになったか、その闇の根っこが明らかにならないのであります。「文明」の黒い渦の中にまで、目は注がれていいのであります。日清戦争は日露戦争となりました。そして、さらに第一次世界大戦となり、満州事変から日中戦争へと拡大して、ついに第二次世界大戦となって、恐ろしい敗戦を迎えたのであります。

 第二次世界大戦では、戦争の惨たらしさからばかりではなく、「一億玉砕」、また「死んでも捕虜になるな」という思想でどれほどの人が亡くなっていましょう。その思想こそがまた、日本人の犠牲だけではなく、戦争の敵方であったアメリカゃイギリスの兵士たちをも、ともに犠牲にすることになったのではないでしょうか。南方のサイパン島、その他の島々や沖縄での多数の民間人が自殺していました。断崖から飛び降りてゆく女子供の姿が、いまに私の眼底には残っていて消えません。私たちは、米兵は鬼であると教えられたのでした。この思想が、文明の名において、文明の中から生まれていた。

 私たち人間の近代的な合理精神というものには、まさしく闇が潜んでいたと考えるほかありません。私中心に、私といえる知恵で自然を征服して、人間中心の豊かさをつくるというだけでは、その私の知恵のなかに潜んでいる無明がいよいよ深まることでありましよう。人間の世界を地獄に変えてしまう、人間の根源的闇を超えることはできないのであります。いま世界の無量の仏様が、私たち人間の無明を真っ直ぐに見詰めておられるのであります。