「念仏往生」の大地に立つ  2005.4.2  高 史明

第6章

 思えば、人間の「文明」とは、人間が記号を使って、社会生活を始めたことに起源があったのでした。その記号が、近代世界では、福沢諭吉のいう「実学」、つまり「科学」の基礎ともなったのでありましょう。まさしく近代に入って、人間は数というメスをもって自然を征服して自らの幸せを計る時代を開いたのであります。それが近代科学の方法だったのでした。しかし、その近代科学が、現代に至って原子を解剖することにもなり、そこに原子爆弾が生まれてきたことの意味がよくよく見詰められていいのであります。

 日本の原子物理学者であって、ノーベル賞を受賞された朝永振一郎先生はおっしゃっておられました。「第二次世界大戦の最中―アメリカでもドイツでも、あるいはほかの国でも、物理学者たちはウランの核分裂を利用して大きな破壊力をもつ原子爆弾というようなものをつくることは、少なくとも原理的には可能だということを知っておりました」と。そして「アメリカの科学者たちはこういう可能性が見つかった以上、敵国であるナチス・ドイツの科学者がそれをつくるかもしれないという悪夢のような恐怖心をもった」と言うわけであります。

 最も先端的な理性の持ち主たちが、その理性ゆえに恐怖心の虜になったのであります。人間中心の理性は、原子の世界を解明する一方で、人間を恐怖心の虜にしているのであります。原子爆弾の製造競走が始まった。そしてその爆弾が作られて、人間の頭の上に破裂させられたのが、第二次世界大戦において世界中が目撃したことだったのでした。学問のすすめ、実学のすすめとは、まさに人間の無明とともに見詰められるのがよいのであります。現代世界の闇は、まさに福沢諭吉の理性の描いたコースにぴったりと対応しているのであります。第二次世界大戦の無量の仏様が、この人間の無明を真っ直ぐに見詰められておられましょう。文明の時代が、六五〇〇万人からの戦争犠牲者を生み出すとは、何ということでありましょう。

 私たちはしかし、極めてのんびりしているのではないでしょうか。敗戦の後、日本では戦争放棄を原則とした憲法が生まれました。しかし、いまは国益を建前としてイラクに派兵され、さらにこの戦争放棄の憲法が改正されようとしているのが現実であります。思えば、日清戦争のときにも、人々は文明開化の声に呼応し、アジア蔑視のコースに乗って戦争に参加したのではなかったでしょうか。私が子どもだったころ、中国人については、「チャンコロ」という蔑称があったものでした。そして、朝鮮人は、牛馬豚犬に異ならず」と言われていたのであります。

 そのとき仏様の平等に立つ仏教はどうだったのでありましょう。廃仏毀釈の後の仏教もまた、人々の幸せを真に考えることができなかったのではないでしょうか。そして、彼我に多大な犠牲が起きたのであります。福沢諭吉の「理性」は、この方面でもまた、大きな働きをしていました。彼はその現実対応の正確な理性を大いに発揮して、「宗教」を「効能」という面で考えていたのでした。「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取り合せならん」ということなども口にしていました。そこから両本願寺の法主が親しく兵士たちに向かって、国家への献身を説くようにも求めてもいたのであります。第二次世界大戦のとき、もっとも大きな犠牲者を出したのは、本願寺のご門徒の方々ではなかったでしょうか。その遺族の涙は、いまどこに向かって流れているのでありましょう。

 いや、「文明開化」の波に翻弄されたのは、仏教界だけではありませんでした。正岡子規は明治の優れ歌人でした。『病床六尺』など素晴らしい言葉が多くあります。素晴らしい歌が沢山ある。しかし、彼のアジア認識は、いかにも牧歌的なものではなかったでしょうか。彼に次の歌があります

柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺

 この歌の境地は何でありましょう。お念仏と同列に並べられていいものでありましょうか。確かにここには素晴らしい境地が開かれていると言えます。しかし、この歌が詠まれたのは、日清戦争に勝利した年だったのでした。日本はこの日清戦争に勝利して、台湾、遼東半島などを時の中国から奪いました。

 ところで、その年の年表を見ると、どうでありましょう。いやでも、次の記述が目にはいってきます。「ソウルで日本軍守備隊、日本人壮士ら、大院君を擁してクーデタ、閔妃を殺害」。閔妃は朝鮮王朝末期の王妃だったのでした。韓国でこの歴史的事実を知らない人は、一人もいないのではないでしょうか。日露戦争が起きたのは、このほぼ十年後のことでした。そして、その十五年には、朝鮮は日本に併合されることになったのであります。福沢諭吉に言わせるなら、それもまた「西洋の文明国と進退を共にし、その支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、まさに西洋人が之に接するの風に従って処分」したということでありましょう。

 しかし、まさにこの「勝利」こそは、その後の十五年に発端となったのであり、第二次世界大戦の敗北と五百万人と言う恐ろしい日本人の死傷者となったのであります。にもかかわらず、日本の世論は、あの時代は中江兆民や大逆事件で死刑となった幸徳秋水らの苦悩に対しても、実にのんびりした対応しかできなかったのではなかったのではないか。中には深い不安を抱いていた人も少なくあったと思いますが、多くは、文明開化の掛け声に半ば酔っていたと言っていいのではないでしょうか。その後の彼我のあまりにも大きな犠牲に照らして、それを思うのであります。

 例えば正岡子規は、まさしくその地獄の始まりの年の一八九五年に先の歌を詠っていたのであります。「柿くえばー」と。まことに長閑な境地であります。人間と柿と季節と法隆寺の鐘の音が一つになっています。一つの立派な境地と言えましょう。しかし、その境地は決して朝鮮に派兵された兵士の境地につながるものではないと言えますまいか。あるいは毎日、田んぼを耕して、苦しい生活を送っている農民の生活意識に起きるものではないかと思います。この境地は、まさに理性の人の境地であります。自らの罪業に慄き、あるいは餓死の寸前に追い込まれて、助けて下さいと叫ばずにおれない人々は、なかなかこの境地にはなれないのであります。少なくともこの境地は、お念仏と一つではないと私は思います。

 蓮如上人が学んだ『歎異抄』に次の言葉がありました。

 「経釈をよみ学せざるともが゛ら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といいつべし」

 この言葉の横に福沢諭吉の『学問のすすめ』を置いて見るとどうでありましょう。彼は言ったのでした。 

 「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人とのべつは学ぶと学ばざるによりて出来るものなり」と。

 ところで、「柿くえばー」の境地こそは、まさにこの賢人のものであります。この賢者の絶対化が文明開化と見られ、その絶対化の陰で日本人の兵士はもちろん、アジアの膨大な戦争犠牲が起きたとみるのは、果たして私の独断というものでありましようか。

 学ぶことが、核爆弾の時代に至っている今日、私たちはまさに無量の仏前において、自らの知恵のあり様をよくよく考えてよいのであります。それこそが真の供養であります。

 「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。ー」と告げられていたのでした。また「いずれもいずれも、この順次生に仏となりて、たすけそうろうべきなり。―」とも言われていました。しかも、そのお言葉の間に置かれているのが、「そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」でした。この教えのおこころを頂きますなら、その意味するところは、人間とは「タダ弥陀ヲタノムココロノ一念ノ信心」なくしては、一切の生きとし生けるものの真のいのちのつながりを、自らの父母兄弟のいのちのつながりのようには感じることができないと言うことでありましょう。

 それはまた、人間もまた、真実のいのちから生まれ来たものであって見れば、生きながら自らのいのちの真実を、深く喪失していることに他ならないと言うことであります。戦争とは、人間のその無明の闇に引き起こされる殺しと殺し合いであります。人間中心の知恵が生んだ文明とは、二十一世紀の今日だけではなく、まさに日清戦争のときからして、すでに無明の闇を深めていたのであります。